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「東北のウィーン」めざす・郡山

 福島県の郡山市は、私の記者人生の岐路になった忘れ得ぬ街である。中央の桧舞台で活躍したい夢は叶えられなかったが、記事を書くだけでなく地方の人たちの息吹にふれながら、街づくりにも参加できる地方記者の醍醐味を体験、その生き甲斐を知ったのは郡山だった。

 横浜から東京本社へあがらずに、突如、東北の郡山通信局に転勤を命じられた。1959年(昭和34年)夏で、支局長はこの人事に反対、本社との間でひと悶着あった。「政治部へ行かせる」という私との約束が反古になるだけでなく、他の支局員の士気にも影響するためだった。
 その年の春、本社のU政治部長が編集局次長に栄進、地方を統括する通信部長(地域報道部長)を兼務した。地方支局は地方ニュースの報道だけでなく、記者の新人教育機関としての使命を課せられている。入社試験に合格したエリートは、全員、地方支局に4年から6年間、駆け出し時代を経て本社へあがるのが慣例で、いわば地方支局で篩い(ふるい)に掛けられる。それだけ、支局長の責任は大きかった。
 地方記者をドサ周りの田舎記者として、一格下にみる傾向もあったが、新任のU部長は「朝日」の将来のため、そうした考えを払拭、優秀な人材を支局長に起用する方針を打ち出していた。
 「政治部は君を欲しいといっているが、支局長要員とするため断った。本社からの天下りでなく、地方の第一線を経験した者を支局長に登用したい。中央で活躍したい気持ちは分かるが、政治部経験より地方勤務を体験するほうが役に立つと判断した。了解して欲しい」
 結核で正式入社が遅れたうえ、手術のための休職などで、年をとり過ぎていた。中央の桧舞台で活躍してみたいという野心は捨てきれないが、通信部長の方針も理解できるし、郡山ゆきも一つの選択肢かと考えた。

 「朝日」は、記者が地方から本社にあがる場合、配属された部で働き盛りは通すのが不文律となっている。政治部へあがった者は経済部、社会部など他の部には移れない。本社の何部に上がるかによって、記者人生が決められてしまう。本人の希望よりも、どの部が向いているか支局長の的確性の判断と、編集局の方針やそのときの社内事情によって決まる。
 郡山ゆきを選べば、地域報道に当たる分野で仕事をしなければならない。私にとつて記者人生の岐路である。ちょつと地方で勉強してくるというような簡単なものではなく、自分の進路が決まるだけに、それなりの覚悟が必要だった。仕事に失敗したり、上司に背いた者を「左遷」という形で地方にとばすことは、朝日の場合、皆無に近かった。
 それだけ、地方勤務を大切にして、地方記者の誇りを尊重してきた。

 郡山通信局は、北は北海道から西は静岡まで、辺鄙な地方通信局を家族ぐるみで西に東へと転勤を重ねて苦労をしてきた中高年記者たちにとって、定年を前に「あがり」となる憧れの職場でもあった。東京本社管内にある80近い通信局の中でも、いわば格の高いものだった。
 「なんで、社歴も浅いあんな若造が・・」という反発の声が、地方勤務の老練通信局長たちからあがって白い目で見られた。一方、同年輩の仲間からは「支局長と喧嘩でもして政治部ゆきはフイにされたのか」といわれ、抜擢か左遷かの板ばさみに複雑な心境になった。
 「郡山通信局長」という肩書きをはずして、「福島支局員・郡山駐在」として欲しいと部長に訴えたが、部長は「地方重視の方針を社内に示そうとする会心の人事」といって一蹴された。そんな期待に応えられるか、自信がないまま気持ちを整理して赴任した。

 郡山市は当時、人口10万(現在は33万)の福島県だけでなく、東北地方の中核都市とされていた。東北本線と磐越東西線との分岐点という交通の要衝で、鉄道貨物の取り扱い量では郡山駅は仙台駅を上回る東北一の実績をもっていた。県庁所在地の福島市を経済、産業、教育などあるゆる面で上回り、東北本線沿いとしては、仙台に次ぐ第二の都市だった。
 東北地方はまったく未知で、郡山という街の名前さえ知らなかった。
 明治時代に開削された安積疎水により、北海道と似た開拓史を歩む郡山の歴史は始まった。安積疏水は農業用水のみならず、工業用水・水力発電飲用水に用いられ、郡山は大正時代には市制が施行されて福島県第一の都市に発展した。城下町でもない、明治にできた全くの新興都市である。
 故郷のある信越本線沿いの街は馴染みがあるが、東北地方では仙台や戊辰の役に関係のある会津や米どころ、酒どころの秋田、最果ての青森ぐらいしか知らない。それのいずにも関係なく、明治維新による士族たちが全国から集まって開拓した都市と、赴任後にはじめて知った。
 仙台と東京の中間で関東に近いため「東北」というイメージには程遠く、当時、東北というと藁葺き屋根の農家が象徴されたが、郡山市はポスターからの茅葺屋根の追放キャンペーンを市役所が起こしていた。
 半世紀近くも前のことで、ポスターから萱葺き屋根を消したりして、「脱東北キャンペーン」を展開するのは理解できなかった。

 太平洋と日本海を結ぶ東西交通の十字路として発展、交通の便がよいため全国から多くの人が集まった。そのなかで、歴史のない新興都市にありがちな暴力団がはびこり、その抗争が絶えず治安が極端に悪化した時代があり、マフィアの抗争にちなんで「東北のシカゴ」と呼ばれていた。
 私が赴任した当時は、「シカゴ」の汚名を返上し、音楽などが盛んな音楽都市をめざして『東北のウイーン』を合言葉に、若者を中心に街ぐるみの文化都市への運動が展開されていた。
 「暴力の街」の残糟が残っていて、警察は駅前繁華街や盛り場は、夜は10時閉店の規制を決めて、パトロールを強化していた。10時すぎになると、繁華街の灯は消えて、人通りが途絶えて酒も飲めなくなる。
 33万都市に発展、全国有数の音楽の街として定着した都市に、そんな暗い過去があったことを知る人は少なくなったが、『シカゴからウイーン』が、当時の街ぐるみの合言葉だった。

 着任の挨拶に秀瀬市長を訪ねた。13回目の終戦記念日を迎える直前で、「海ゆかば」の戦争中の葬送曲演奏について「もう、市の公式行事には歌わないことにしたいが、どう思いますか」と、突然、意見を聞かれた。
 「海ゆかば」は、大戦末期にラジオ放送の戦果発表に、玉砕の場合、番組導入部の鎮魂曲として放送された。緩やかなテンポの荘重かつ荘厳な曲から敗戦まで、国民にに愛唱され「第二国家」とまで呼ばれた。
  『海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)/山行かば 草生(くさむ)す屍 /大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ/かへりみはせじ 』
 当時は、ほとんどの人が歌詞を諳んじていて、終戦記念日には各自治体とも決まったように戦没者の鎮魂として演奏、歌われ続けられてきた。
 秀瀬市長は、郡山の有力企業である保土ヶ谷化学の工場長から労組の推薦で市長になった社会党員である。「大君の辺にこそ死なめ」の歌詞は、平和にそぐわない、という意見だった。
 勤労者や市民にクラシック音楽などを安く鑑賞させる「労音」で、郡山は全国有数の組織率を誇り、正会員は2000人のほか入会待ちの市民が大勢いた。この労音が、音楽都市づくりの中核になっていた。
 市長は音楽都市の名にかけて、その年から終戦記念行事では『海ゆかば』の演奏は一切中止することを決めた。「君が代」論争はあったが、「海ゆかば」については、全国の自治体はなんの抵抗もなく演奏していた。

 『音楽都市・郡山 終戦記念に「海ゆかば」演奏中止』 赴任後1週間目に書いた私の記事が社会面のトップを飾った。着任挨拶に市長を訪問して、たまたま掴んだ特ダネである。その反響は大きく、翌年の終戦記念日から「海ゆかば」の演奏を中止する市町村が相次いだ。
 郡山でも、その反響の大きさに驚き、「音楽都市」として全国に名が知られるキッカケになった、と喜んだ。こんな郡山との出会いが、私のこの街での取材活動に大きなプラスとなり、地元の人たちの信頼をえて、その息吹にふれる機会が多くなったのは、私にとっても僥倖だった。
 明治の開拓でできた新興都市だげに、地方にありがちな閉鎖的なところがなく、開放的なのもこの街の特色だった。福島県には民友(読売系)と民報(毎日系)の二つの地方紙が競争、ことごとく利害関係が対立していた。
 「朝日」は、そのいずれにも属さない中立的な存在として、有識者層からの支持が多く、とくに地元紙の本社がない郡山は朝日ファンが有力者の間に多いのも幸いした。
 政治とは一切無関係の有識者たちが、自由に語りあう小さなグループがあった。「七日会」とよんで、毎月七日に蕎麦屋の二階で懇談する。県の女性教育委員、信用組合理事長、市役所の課長、青年会議所の幹部などのほか無名の文化人もメンバーで、20人ほどの集まりだった。
 私の二代前の通信局長の呼びかけて出来たグループで、朝日の通信局長は無条件で入会できるが、他の場合は全会一致でないと入会を認められない。会での話は一切オフレコと決められ、「一人一話」として出席者は全員が1人10分の程度の話をするのが義務付けられていた。

 「あんたは、旅人(たびにん)で、どうせ2、3年したら、他の土地へ行ってしまう。親しくなっても別れが辛いから、これ以上親密になるのは困るよ」
 七日会のメンバーであるAさんが、喫茶店でしみじみ漏らした。Aさんは市の課長で市役所の隣にある通信局に、「居るかい?」と毎日のように顔をみせてお茶を飲んでゆく。新聞記者と市の課長という関係を抜きにした付き合いが続き、互いに人柄が分かっていた。
 「たびにん(旅人)だから」と言われて胸が詰まった。転勤と異動は当たり前だし、朝日の場合、地方との癒着を避けるため3年経てば、他県に転勤させるのを原則にしていた。だが、地元の人にとっては、親しくなって長く付き合おうとしても、3年後にはサヨナラとなるのは辛い。こちらだけの論理で簡単には割り切れないとはじめて気づいた。
 「旅人だから、別れが辛い」といわれるほど深く付き合わないと、地元の人の心には触れられない。期間は短くても、密度の濃い付き合いをして任地を離れても生涯、親しくできるような関係にならないといけない。Aさんの「旅人」が身に沁みて、彼とは生涯の友になった。

 「郡山」の名前が、全国版に載る回数がふえるようになった。やつと地元に溶け込めたと思った頃、本社では私の転勤が噂されていると、風の便りに聞いた。上司に当たる福島支局長も一緒に飲みながら、そんな口吻をもらすので、「郡山が好きになった」と、それとなく牽制した。
 たまたま、米作日本一表彰の打ち合わせ会議が管内の温泉町で開かれた。出席した本社の文化企画局のデスクから「ゲバントハウスの演奏会を郡山で開く話があるのだが、意見を聞かせてくれ」と、会議の休憩時間に聞かれた。「ゲバントハウス」がどういうものか知らず、各県で演奏会を開くのだろうと簡単に考えて、「福島県なら郡山でしょう」と答えた。
 数日後、「朝日」の一面に『ヨーロッパ最古の楽団、日本で初公演』という大見出しの社告が掲載された。そして、ゲバントハウス交響楽団の公演開催地として東京、大阪、小倉、名古屋、郡山の5カ所があがっていた。
 社告を目にした途端、青くなった。間髪をいれず福島支局長から「どうなっているのだ。俺は知らんぞ」と怒鳴った怒りの電話が飛び込んできた。
 文化企画事業は、編集局とは別組織の企画局が行うので、責任はないが、地元ではそうは解釈しない。東京をはじめ各本社所在地が公演開催地になっているのに、東北の一都市に過ぎない郡山が肩を並べるとは、常識では到底考えられない。
 音楽都市といっても、レベルが違う。先日の企画局デスクの打診に迂闊に答えたのは誤りだった。それにしても、成否の目算はなく、詐欺にあったような気がしてショックだった。クラシックに精通していれば、世界的に高名なゲバントハウスの名前は知っていて、地方での公演は無理と断っただろう。入場料が最低1万円と聞いただけで絶望的になる。

 ところが、地元の反応は予想もできないほどの感激ぶりである。
 「こんな栄誉なとはない。郡山が四大都市と肩を並べて世界的な交響楽団の開催地に選ばれるとは・・。朝日さんありがとう」と、興奮気味の電話が鳴りやまない。七日会のメンバーからは、演奏会の切符は、われわれの手で捌くから心配するなと励ましの声がかかる。
 当時、郡山の市民会館は1000席近いシートを持っていて、それまで東北一とされていた仙台の電力ホールを上回っていた。また、労音の組織率など観客動員力は高く、音楽マーケットとしては東北では最高とされていた。
 文化企画局は、まだ日本と国交のない東ドイツの共産圏、ライプチヒにあるゲバントハウスを初来日させるからには、なんとしても成功させたい、と音楽市場を分析した結果、郡山に白羽の矢を立てたのだろう。
 私への打診は、開催地の通信局に迷惑をかける場合もあると、いわば仁義をきったものと想像がつく。切符の売りさばきなど、その成否は新聞記者である私には関係ないと割り切っていても、そう簡単にはゆかない。
 七日会が中心になって、産業、財界、文化団体、合唱グループに呼びかけて、早速、ゲンバント対策委員会が組織された。5月5日の公演まで2カ月しか猶予がない。

 「一晩3000万円近い事業になる。自分の手でそれをする機会は一生ないだろう。責任をもたずに、それに携われるのもよい体験になる」と、それまでの発想を転換したら、気持ちが楽になった。
 プレイガイドでの切符の消化状況を聞く対策委員会が毎夜開かれる。全員がボランティアで切符も貰えるわけでもない。音楽都市、「東北のウィーン」の名にかけても、切符は完売と意気込む。
 ただ座っていてプレイガイド任せでは、最低1万円の切符は捌けない。相撲の枡売りシステムに倣って、7シート通しの一連切符を企業に買ってもらい高いS席は埋める作戦を知恵者が考え出した。
 私も企業周りに同行して欲しいといわれた。ただし「通信局長は、切符を買って欲しいとは一言も言うな。朝日がなぜ郡山に世界最古の交響楽団を呼んできたかだけを説明すればよい」と、新聞記者としての筋を曲げるような行動はしないで欲しいと、言われると頭がさがる。
 小倉の公演は、やっと半分しか席が埋まらない。大阪も満杯にはほど遠く、名古屋にいたっては三分の一と、切符の売れ行きが悪く惨敗という情報が入ってくる。それに反比例するように郡山の売れ行きは日を追って伸びて、80%は売り尽くした。
 人口10万ぐらいの都市は、いったん火がつくとブームになりやすい。ゲバンドハウスの話題で持ちきりになり、銀行へ預金をおろしに行ったら、通帳をみた窓口の女子職員が「全席埋まって完売しても、100万円の赤字だそうですね。そんな無理までして郡山で公演してくれる朝日に感謝しています」といわれて驚いた。ゲバントを聴かない者は人に非ずといわんばかりの熱気で、切符は一枚も残らず100㌫の完売を果たした。

 そして、冷戦下で国交のない東ドイツの楽団に対する市民の歓迎セレモニーに楽団員が感激、交流の輪ができて、公演は予想外の好成績をおさめた。この話が東京をはじめ各地に伝わって、郡山は「東北のウイーン」として音楽都市の名前を不動のものにした。
 私も、全国通信局長会議で筆名高い笠信太郎論説主幹から「近来、稀にみる喫驚の快事である」として褒められ、ゲバンドハウス成功のおこぼれに預かった。そして「朝日」と「郡山」の関係は親密になり、私が去ってからも3年続けて、コンセルトヘボーなどヨーロッパで世界的に有名な交響楽団の公演を郡山で開催、その都度、成功した。
 いまは、遠い昔の語り草となったが、ベートーベンの「運命」などを聴くたびに、郡山が思い出される。

 

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