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2011年2月

2011年2月14日 (月)

待たれる「春は黄色から」

 ことしは春の訪れが遅い。「春は黄色から」の先駆けをつとめる福寿草は毎年、2月はじめには黒い土から黄色の芽をもたげるが、ことしは頭を少しだしただけ。司馬遼太郎の命日「菜の花忌」も過ぎたが、菜の花の盛りはこれからである。希望をもたらす色として親しまれている黄色の春の到来が心から待たれる。066_2

 福寿草は正月の縁起ものとして、鉢植えが飾られるが、庭に植えた福寿草は多年草で2月の初めには土中から黄色の花芽をのぞかせ、春の陽を浴びて日毎に膨らんでゆく。開きはじめた梅の花と”春の一番手”を競い合う。観光用の福寿草の群落がようやく花を開きはじめた写真が、新聞に紹介されはじめたが、わが家のものはこれからで、庭に出るたびに小さな花芽をみては、”春待つ心”をかきたてられる。
 

 「春の黄色から」の代表は、なんといっても菜の花だろう。正月、伊豆の観光名所は菜の花が満開、到るところい黄色の群落がみられた。作家の司馬遼太郎は、春の黄色い花を愛し、なかでも菜の花を好んで、命日の2月12日は「菜の花忌」と名付けられた。
 「坂の上の雲」のドラマ連載がはじまって、司馬遼太郎ブームが再燃しているが、数年前、ドラマ、映画化された名作にも「菜の花の沖」とタイトルがつけられた。042_7
 司馬は、野に咲く花、とりわけタンポポ、菜の花をはじめとする黄色い春の花を愛した。 記念館の書斎の前には、直径1メートルほどの土管があり、司馬はここに菜の花を植え、春の開花を楽しみにしていた。小さいながら雑木林風の庭になっていて、今も同じようにボランティアの皆さんが菜の花を植え、
この日には、1997年以来、毎年、東京と大阪交互にシンポジウムや講演会を開いている。会場に全国から贈られる菜の花約3500本が飾られ、終了後、入場者に配るのが恒例になっている。
 菜の花の絶景は、東欧のボヘミヤ平原に地平線の彼方まで染める黄色の菜の花である。菜種油の原料としてヨーロッパ各地では至る所に菜の花畑がアウトバーンの沿道を埋めるが、なかでもボヘミヤ平原の黄色い絨毯は圧巻だつた。司馬遼太郎は、日本と関係の深いオランダ、スペインのバスク地方の他はヨーロッパを歩いていない。観光は好まないという理由らしいが、彼にボヘミヤ平原の菜の花畑の見事さを見せておきたかった。

 春の黄色の花が好きで、過去になんどか「春は黄色から」という題名のエッセーを書いた。春を告げる「蕗の塔」を採りに近くの裏山を歩いたが、いまは宅地造成の犠牲なって蕗畑が潰され、野生の蕗の塔が消えて久しい。スーパーなどで栽培したパック詰めのものを見かけるが、蕗の薹特有の香りとほろ苦さはなく、手にもする気持ちになれない。
 なんの変哲もない小さな球だが、その香りとほろ苦さが忘れられない。料理店などで蕗の塔の天ぷらを出すが、土から掘ってきたものを味噌汁にまぶした風味はまさに春の香である。

 晩春になると、連翹(れんぎょう)が一斉に黄色い花を枝もたわわに咲き始める。いまは垣根越しに植えるものが多くなった。春の雨に濡れた連翹の花、その黄色の鮮やかさはひとしおである。かつて、イタリアを旅してハイウエイ沿いの丘に連翹の群落が連なっているのを見たが、一般に大ぶりで風情に乏しかったのを思い出した。

 アメリカでは黄色は「希望」「勝利」の象徴として、かつて西部劇には「黄色いリボン」がヒットし、湾岸戦争のときは家庭の門、とくに戦没者の家には黄色の旗を掲げて勝利を祈ったという。日毎に春めいて黄色のオンパレードになるのが待ち遠しい。

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2011年2月 7日 (月)

二月は逃げてゆく

 二月は二週に入ったばかりなのに、「二月は逃げてゆく」というのは気が早いが、毎年、この時季になると「一月(行き)、二月(逃げ)三月(去る)」という言葉が浮かぶ。立春といはっても、春は名ばかりで梅だよりが聞かれるだけで、庭の福寿草も芽を出さない。街ゆく人も分厚いダウンコートを膨らませているのに気持ちだけは「二月逃げる」となる。

 「一月(行き)、二月(逃げ)三月(去る)」は、楽しかった正月はあわただしく過ぎ、日数が短い二月はあっという間に終り、年度末の三月も卒業式、人事異動などに追われて何事もしないうちに去ってゆく。誰いうとなく、いつか定着したが、辞書はもちろん、ことわざ事典にも載っておらず、その起源は定かではない。
 一説によると、年度末で忙しい学校教育関係者が言い出し、語呂もよいので普及したという。先物売りでデパートやスーパーの先物商法が拍車をかけて、季節感を無視して人の気持ちを先へ先へと駆り立てる昨今、いつか季節に追いかけられる錯覚に陥った。

 学校教育関係だけでにく、近頃は町内会はじめ趣味のグループなども、3月の年度末に役員が交代するようになり、二月はその選考でひと揉めするケースも少なくない。そして辛夷の花の咲く頃になってようやく役員の顔ブレが決まる。毎年のことながら、こうしたことから「二月逃げてゆく」と急きたてられ、花を楽しむ”春惜しむ”といった感覚が徐々に薄れて世の中にゆとりや余裕がなくなったのは侘びしい。

 ことしは政界の混迷、とくに民主政権の非力さと、政権執着のための無節操ぶりが目立つなかで、四月の地方選挙へと有権者を駆り立てる。本場所再開のメドも立たない相撲界賭博問題も”春の到来”を遅らせている。

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2011年2月 6日 (日)

故人からの年賀状

 立春に年賀状の話はおかしいか知れないが、たまたま「朝日」の「声」欄に掲載された「故人からの賀状は絶対保存」という主婦(48)の投書に共感させられた。パソコン時代になってから、長年にわたって賀状をやりとりしていながら、相手が故人となると宛名一覧からの削除で終りと片付けてしまう。そんな心ない賀状の扱いに投じた一石である。

 投書した福岡市の主婦は「古くなった年賀状を、各家庭ではどうされているのだろうか?」と疑問を投げかけている。賀状は大抵、毎年出す相手はきまっていて、宛名を書くのに前年の賀状は保存しているが、パソコンが普及し宛名印刷の機能を使えば賀状保存の必要もなくなった。字体もほとんど同じような宛名印刷は、ダイレクトメールと同じで心が籠っていない。
 パソコンは使うが、せめて宛名だけは手書きにしたい。能率はともかく、相手の顔を思い浮かべながら「お元気ですか」と声を掛けながら宛名を書く。それほど親密の間柄でもなく、職場や仕事の義理で書くものは、年々整理して賀状を減らす傾向が強いが、たった50円で年に一度の挨拶や交流が交わされるのだからと、相手が打ち切らない限り続けている。

 投書の主婦は「私は5年前のものは破棄することにしている。5年も経つと束ねてあったゴムが伸びきるので、年賀状も寿命・・と勝手に判断しているからだ。しかしむやみに捨てるのは忍びない。心の中で頭を下げながらせめて綺麗な袋に入れて捨てている。一方、親しい友人や親戚の写真入りのものは保存する」と、賀状の扱いを披露している。
 バソコンの宛名印刷は一切使わないから、前年、賀状整理のファイルに納めて5年は保存している。フライバシイや個人保護法を盾に会社でも社員・OBの名簿配布を数年前からやめたので、賀状ファイルは名簿がわりに手元におくようになった。
 ことしはお年玉抽選が23日だったので、それが済んでからと1月末に新しいファイルを求めようとしたら、葉書ファイルは年末と正月しかありませんと、文具店に断られた。葉書を出したり保存する人がメール交換などで年々減って、ファイルの需要がなくなったらしい。

 現役のとき、たまたま仕事の関係で世話になったS県高校野球連盟理事長のKさんから、20年も賀状を頂いている。彼もすでに引退、ともにリタイヤの身である。S高校が甲子園全国大会で決勝戦まで進んだ思い出が、Kさんには一生の宝なのだろう。
 スペイン、スイス、ドイツ、トルコなどツアーで同行、たまたま2週間一緒に旅した何人かの人との賀状交換が続いている。当時、新婚さんだったカップルから4人の子どもの写真入り賀状を貰い、10数年前の楽しい旅を思い出す。たかが、賀状一枚とは言い切れない自分が歩んできた”自分史”の一頁でもある。だから、むやみに破棄できない。

 まして相手が亡くなって故人になった場合は、たった一枚の遺された思い出として大切に保存、賀状書きのシーズンになると、亡くなられてから何年か数えてしまう。
 投書の主婦は「絶対保存版は亡くなった方からの年賀状だ。毎年、5年前の年賀状を丁寧に見返してみると、誰もが幸せそうな顔をしてほほ笑み、「なんとか元気で暮らしています」と文字が躍っている。そんな様子はやはり嬉しく懐かしく、頂いたメッセージは、特に大切にしまうことにしている」と書いていた。
 故人となったご本人の賀状だけでなく、そのご遺族から頂いたもの、とくに未亡人となられた方からのものは身につまされて、慰めたり、励ましの添え書きをしてしまう。
 立春の日に、「故人の年賀状」の投書を載せた編集者にも同じ思い出があるのかもしれない。

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