2011年2月 6日 (日)

故人からの年賀状

 立春に年賀状の話はおかしいか知れないが、たまたま「朝日」の「声」欄に掲載された「故人からの賀状は絶対保存」という主婦(48)の投書に共感させられた。パソコン時代になってから、長年にわたって賀状をやりとりしていながら、相手が故人となると宛名一覧からの削除で終りと片付けてしまう。そんな心ない賀状の扱いに投じた一石である。

 投書した福岡市の主婦は「古くなった年賀状を、各家庭ではどうされているのだろうか?」と疑問を投げかけている。賀状は大抵、毎年出す相手はきまっていて、宛名を書くのに前年の賀状は保存しているが、パソコンが普及し宛名印刷の機能を使えば賀状保存の必要もなくなった。字体もほとんど同じような宛名印刷は、ダイレクトメールと同じで心が籠っていない。
 パソコンは使うが、せめて宛名だけは手書きにしたい。能率はともかく、相手の顔を思い浮かべながら「お元気ですか」と声を掛けながら宛名を書く。それほど親密の間柄でもなく、職場や仕事の義理で書くものは、年々整理して賀状を減らす傾向が強いが、たった50円で年に一度の挨拶や交流が交わされるのだからと、相手が打ち切らない限り続けている。

 投書の主婦は「私は5年前のものは破棄することにしている。5年も経つと束ねてあったゴムが伸びきるので、年賀状も寿命・・と勝手に判断しているからだ。しかしむやみに捨てるのは忍びない。心の中で頭を下げながらせめて綺麗な袋に入れて捨てている。一方、親しい友人や親戚の写真入りのものは保存する」と、賀状の扱いを披露している。
 バソコンの宛名印刷は一切使わないから、前年、賀状整理のファイルに納めて5年は保存している。フライバシイや個人保護法を盾に会社でも社員・OBの名簿配布を数年前からやめたので、賀状ファイルは名簿がわりに手元におくようになった。
 ことしはお年玉抽選が23日だったので、それが済んでからと1月末に新しいファイルを求めようとしたら、葉書ファイルは年末と正月しかありませんと、文具店に断られた。葉書を出したり保存する人がメール交換などで年々減って、ファイルの需要がなくなったらしい。

 現役のとき、たまたま仕事の関係で世話になったS県高校野球連盟理事長のKさんから、20年も賀状を頂いている。彼もすでに引退、ともにリタイヤの身である。S高校が甲子園全国大会で決勝戦まで進んだ思い出が、Kさんには一生の宝なのだろう。
 スペイン、スイス、ドイツ、トルコなどツアーで同行、たまたま2週間一緒に旅した何人かの人との賀状交換が続いている。当時、新婚さんだったカップルから4人の子どもの写真入り賀状を貰い、10数年前の楽しい旅を思い出す。たかが、賀状一枚とは言い切れない自分が歩んできた”自分史”の一頁でもある。だから、むやみに破棄できない。

 まして相手が亡くなって故人になった場合は、たった一枚の遺された思い出として大切に保存、賀状書きのシーズンになると、亡くなられてから何年か数えてしまう。
 投書の主婦は「絶対保存版は亡くなった方からの年賀状だ。毎年、5年前の年賀状を丁寧に見返してみると、誰もが幸せそうな顔をしてほほ笑み、「なんとか元気で暮らしています」と文字が躍っている。そんな様子はやはり嬉しく懐かしく、頂いたメッセージは、特に大切にしまうことにしている」と書いていた。
 故人となったご本人の賀状だけでなく、そのご遺族から頂いたもの、とくに未亡人となられた方からのものは身につまされて、慰めたり、励ましの添え書きをしてしまう。
 立春の日に、「故人の年賀状」の投書を載せた編集者にも同じ思い出があるのかもしれない。

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2011年1月30日 (日)

街も家庭も”サボテン化”現象?

 暮らしや生活に潤いがなくなった、という声をよく耳にする。潤いがなく、とっつきにくい女性を「サボテン女」といわれるが、それと似た現象が世相となって近所付き合いや家庭にも広まってきた。万事に几帳面な高齢者の間にも、最近はそうした傾向が目立ち”サボテン老人”がふえている。

 「サボテン女」の意味を知らない中年世代も多いが、この造語が流行りはじめたのは1994年6月に週刊誌『SPA!』が「サボテン女の生態レポート」という企画をとりあげたのが起源といわれ若い世代に普及した。
 サボテンは砂漠にも育つように乾いていてトゲを持っている。潤いがなく、トゲのため近寄りにくい一人暮らしの女性を「サボテン女」と呼んだ。食事はコンビニ弁当、掃除、洗濯もあまりせず、風呂はたまにしか入らずシャワーだけですませる。水やりなどはやらずに手間のかからないサボテンとよく似ていることから「サボテン女」が生まれた。
 掃除もせず散らかっている部屋は、人も寄せ付けない。これもサボテンのトゲと同じで、ズボラのうえ、人との付き合いも少なく、生活に潤いがなくなる。一人暮らしの若い女性の一面を物語る言葉として普及したが、2007年、TBS系のドラマ『肩越しの恋人』で、主演の米倉涼子が「サボテン女」と呼ばれたことから、再び普及しはじめた。

 それが若い女性だけでなく、一般の家庭や街にも広がってきた。同じ住宅地で顔は知っていているのに、たまにすれ違っても挨拶はおろか会釈も交わさないのが普通になった。普通の家庭でも、主婦は食事づくりに手間をかけずスーパアーで売っている調理済みの食品ですませたり、コンビニ弁当で間に合わせる傾向が目立ってきた。
 ゴミの分別が喧しくなり、一頃は台所などの料理屑などが圧倒的に多かったが、最近は出来合い食品のトレイ、コンビニ弁当のビニールなどプラスチックやビニール製品のゴミが山になっている。ゴミひとつみても家庭で食事づくりに手を抜くのがはっきり分かる。
 レストランや喫茶店は、中年女性のグループで溢れ、夕食づくりの時間までお喋り。帰りは料理済みの食品を買って、夕食の食卓に並べる。家はあまり掃除をしていないから、お互いの家庭に集まるよりも、外で落ちあうほうが気楽である。
 また、スポーツサークルやフィットネスクラブに通う女性がふえ、体操や泳いだ後はクラブでゆっくり入浴、家ではガス代を節約してたまにか風呂を湧かさない。スポーツはしないで入浴をするためだけのジム通いの未亡人や一人暮らしの老女も少なくない。
 掃除は、ヘルパーや街の掃除屋さんに頼む。とくに身体に障害があったり、介護を必要とするほどでもないのに、疲れるからという理由の場合が少なくない。老齢なれば、毎日の掃除や家事をきちんとこなすのは大変である。それでも、つい最近までは、掃除と食事づくりは女性の仕事といった意識が定着していたが、それが薄れときた。中年女性はパートで忙しいからと家事は二の次と、意識が変わってきた。
 これでは若い女性だけを「サボテン女」と皮肉れない。

 ”草食系男性”の夫がふえて、妻の”サボテン化”にも文句をいわず黙認している。こうした傾向は、子育てや家庭教育に影響するのは避けられない。やがて、サボテン化現象は、家庭や街の秩序を乱す社会問題に発展しないとも限られない。
 サボテンだって、乾いて潤いがなくトゲで人を寄せ付けないだけではない。ちゃんと水やりをして手入れをすれば、花の女王といわれる月下美人のような豪華で美しい花を咲かせる。”サボテン化”などと揶揄しないで、まともな生活態度を取り戻せは世相も落ち着いてくるだろう。

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2011年1月29日 (土)

スランプになったら大掃除

 作家は執筆していて行き詰まってスランプに陥ると、それから抜け出す工夫や”儀式”をする。原稿用紙やパソコンに向かって、思考を凝らしてもなかなか知恵がふかばない。書くのやめて、散歩にでかけるか、庭に出て樹々をながめて気分転換をするが、いまは亡き作家の吉村昭さんは、書きあぐねると書斎を出て家中の大掃除をするのがスランプ克服に役立つと書いていた。

 吉村さんに倣って、掃除をすることでスランプを克服するのを何年か続けている。とくに寒い冬、よく晴れあがった日には効果がある。日向ぼっこをして、次の書きだしはと思案しているよりも、ハタキと掃除機を持ち出して掃除大作戦をはじめる。
 よい洗剤なども開発そされているので、気がのると家中のガラス拭きからトイレの掃除、洗面所の水道蛇口もピカピカに磨く。普段は無精で家事にはいっさい手を出さないので、家の者は呆れている。
 書斎と8畳の寝室や居室に電気掃除機をかけ、障子にはハタキをかけて廊下は水拭きをする。掃除の前には、机に積み上げたままの本や乱雑になっている資料を整理。脱ぎ捨てままの衣類をハンガーに掛けたり、畳んで引きだしや収納ケースに収める。
 これが習慣になったのは定年後からである。二階は書斎をはじめ居室は私が占有、一階はすべて妻のものとして、食事やお茶のとき以外は階下に降りない。いわば二階は”私の城”で朝食がすむと、二階に”出勤”する。リビングに居座って新聞を広げたり、テレビを見ていると、妻は時間がとれず落ち着かない。友人が訪ねてきても、二階の私に気兼ねなくお喋りできるから、定年前の生活ペースが続けられる。

 最初は、二階でものを動かしてガタガタ音がすると、何事が起きたかと妻は驚いて二階に駆け上がってきた。横のものを縦にもしない男が掃除などする筈がないから、驚いてしまう。「手伝います」というが、手をだすなと断る。
 女性は掃除は能率的に短時間で済ませて、洗濯など他の家事をしないといけないと考えるが、私は
スランプ解除のため楽しみながら、のんびりやりたい。馴れない手つきに妻が手を出そうとすると、「自分なりの手順とセオリーがあるから手を出さなで」と拒否されて、怪訝な顔をして階下へ降りた。
 それが習慣づいて、最近は二階で音がしても「掃除を始めたな」と気にしなくなった。きょうは本棚を主に掃除しよう、衣類の入れ替えを中心に、机の上の資料整理をと、その日によって手順が違い、読みかけの本や久しくみないビデオやDVDをみつけると、道草して拾い読みしているから時間がかかる。女性の目からみたら、非能率的である。

 男性は女性と違って、変なところに凝ったり潔癖なところがある。吉村昭さんの奥さんで作家の津村節子さんは、「掃除をしてくれるのは有難いが、ドアのノブばかりピカピカに磨くので困る。万編なくやってくれればよいのだが、ノブだけが光っていると他の汚れが目立ってしまう」と吉村さんの掃除癖について書いていた。たしかに、そうした傾向は否めない。
 掃除をする目的が男性と女性と違うから仕方がない。それに、定期的に掃除をするのでなく、原稿を書くのに行き詰まったりしたときにするだけで、書くことにのっているときは掃除などせず、少々の埃がつもっても気にかけない。だから、妻から時には苦情がでる。

 掃除し終わったときの爽快感は格別である。塵がない青畳に大の字になって、青い空をみあげたり、流れる雲をながめていると爽やかな気持ちになる。日向のデッキチェアーに横になって二階から庭を眺めるているとスランプも消し飛んでしまう。女性の場合は、掃除は毎日の日課でたまった家事をこなすため、そんな感慨に浸っている時間などない。「いいご身分ずね」とたまには皮肉の一つもいってみたくなる気持ちも分かる。

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2011年1月23日 (日)

三日で消えた”不眠症”

 正月明けから不眠がちで、先々週は3日間「一睡もできない」夜が続いたが、先週にはいって不眠が嘘のように消え、明け方まで熟睡する日が7日も続いている。いままで使っていた睡眠導入剤を復活させただけで、「不眠症という病気はない」ことが分かって”不眠地獄”から抜け出せた。

 「眠られない」と訴える不眠には、多分にメンタル的な要素が強い。悩みごとがあったり、あすは重要な会議がある、遠くまてドライブしなくてはらないから眠らなければ、と早目にベッドに入った夜はよく寝付かれない、といった経験をもつ人は少なくない。旅先で枕が変わっただけでも眠れられないという人もいる。
 「眠らなければいけない」「早く寝付こう」といった意識が、睡眠の妨げになって、眠ろうと焦るとますます「眠れなくなり」明け方までまんじりともしなくなる。不眠を訴えても「よく眠っていた」といわれ、「嘘!!」と反撃しこの悩みを誰も理解してくれないと深刻に考え、不眠が続くと「また今夜も眠られないか」と疑心暗鬼になって不眠地獄に陥る。
 こんなケースは多かれ少なかれ、大抵の人が経験しており一晩だけで解決するが、神経質になって不眠を意識する人は、不眠が不眠をよんで自縄自縛になる。
 副作用が少なく、習慣性にならない睡眠導入剤(眠りを誘う入眠剤で昔の眠らせる睡眠薬とは違う)が開発されて、医者は簡単に処方してれる。一般には、睡眠薬はなるべく飲まないほうがよい”イケナイ薬”といった意識が強く、最近は高齢者には認知症を誘発するという説まで囁かれて、医者が出してくれた導入剤をきちんち飲まないようになる。

 不眠がちの人は、スムーズに眠りに入るための”儀式”をする。ベッドに入る前に軽い本を読む、心の癒しとなる音楽を聴く、ストレッチ体操をして心身をほぐす、ウィスキーやワインを飲んで緊張を緩める、入浴してリラックスする、といったメニューをこなす。薬に頼らずに、それぞれの儀式ひとつで簡単に眠りに入れる場合はよいが、なにかのはずみに眠れなくなり、その儀式を次々にこなしても眠れず、これでもダメかと焦って、不眠をごしらせてしまう。
 年末から正月にかけては、夜更かししたりして生活リズムが狂いがちになる。眠れぬ夜が続くと、睡眠導入剤の量をふやし、医師の休みが続いて薬を貰えずにストックを切らしてしまった。仕方なく、薬なしの儀式に頼って体質的にダメなアルコールにまで手を出した。効果がなく、不眠をこじられて、苦しさから市販の睡眠薬Dに頼った。
 医師が処方する薬とは違う、抗ヒスタミン剤を改良して2年前に開発、発売された薬で副作用が強く、のどの渇き、異常発汗などに悩まされた。不眠どころか病人のようになった。

 そして、かかりつけの医院に駆け込んだら、いつもの導入剤ユーロジンを処方してくれた。その夜から、いままでの不眠が消えて熟睡できた。「睡眠障害を起こすような病気はないから、この薬で眠れる。睡眠導入剤も種類が多いが、長年、使って副作用や障害がいことが立証されたユーロジンが貴方には適合しているので、他の薬に変えない。認知症との関係は証明されていないし、不眠専門の精神科医の話では、飲んだり、飲まなかったりすると効果がなくなるというので、続けて飲んで欲しい」といわれた。
 うつ病、アルコール依存症のため廃人状態から10年ぶりに立ち直った友人が、各種の睡眠薬を経験していた。現在も2種類の睡眠剤を飲んでいるが、彼の主治医は「高齢者には普通の薬はなるべく減らすが、睡眠薬だけは別である。痴呆の心配はないし、快眠して日中はよい生活ができるよう睡眠剤は減らせない」と話したと聞かされた。
 高齢になると、生活が単調になって不眠がちになるので、睡眠導入剤は欠かせないようになる。習慣性になるのを恐れたり、認知症の誘発を気遣う”イケナイ薬”意識を捨てて、血圧の薬を飲むように軽い気持ちで服用することが必要だという。

 また、不眠の原因は、「早く眠らなくては・・」とか「今夜は眠れるかな?」と意識することにあることが分かった。いったん不眠状態になったら、薬の量を増やしてもなかなか効き目はないし、本を読む、音楽を聴くという儀式を繰り返しても”眠りの扉”は開かない。
 ベッドから抜け出して、無心になって読書を楽しんで眠気を催したらベッドに入る。ラジオやCDの音楽も同様である。私は寝る前にヨーロッパの古代音楽・パンフルートのCDを20分ほど聴くが、眠れぬ夜ベッドで聴いても「眠らなくては」という意識が邪魔して効き目がない。ベッドで悶々としているよりも、「眠れないなら、朝まで聴いてやろう、読んでやろう」と開き直って本格的に聴いたり、読んだりするがよい。
 とにかく「眠ろう」とする意識をなくすことが、不眠克服の先決条件である。

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2011年1月21日 (金)

ある寒中見舞い、硬骨の40年

 先輩のMさんから「寒中見舞い」が届いた。年に一度、賀状を交換する程度で疎遠になっていた。喪中の報せはなかったので賀状は出したが返信はなく、すでに90歳を越しているだけにもしやと不安がかすめた矢先の寒中見舞いである。
 「生きているうちに一度会いたい。朝日は最近ますます悪くなる一方です」と達筆の添え書きがあった。卆寿を越してなお意気盛ん、定年後40年間、「朝日はダメになってゆく」と憤慨し続けるMさんの硬骨ぶりに叱咤された。”恍惚の人”になってもおかしくない年齢なのに、”硬骨の人”を全うするパワーに敬服した。
 Mさんとは前任、後任の関係だった。編集から外郭団体の社会福祉団体の責任者に横滑りして定年を迎える同じコースを歩いた。駆け出し時代、支局は違ったが、育てられた支局長がたまたま一緒で、たがいに私淑して同門の門下生として付き合っていた。
 銀座の老舗、銘菓店舗の長男に生まれたが、家業は弟に譲って慶応へ進学、朝日に入って新聞記者の道を選んだ彼は、戦後ジャーナリズムの申し子だった。英語をはじめ外国語に通じ入社後、外報部に配属という異例のスタートを切った。支局に配属され記者のイロハを叩きこれ4年後に本社へあがるのが通例で、直接、外報部というケースは特別扱いだった。
 基本的な記者訓練なしの本社勤務はMさんにはマイナスで、上司のデスクや先輩とそりがあわずに4年後に仙台支局に飛ばされた。同期入社のものが地方勤務を終えて本社にあがるのに、彼は逆に地方へ流されて記者教育のやり直しである。
 入社したばかりの新人とサツ回りから始めた出戻り記者のMさんは、よく辛抱した。そのときの支局長が慶応出のGさんで、とかく上司に反抗しがちなMさんの性格を心得ていて厳しさの中でも他の新米記者とは別枠で記者教育した。彼はすっかりG支局長に従順になって尊敬した。そのG支局長は私にとっても長野時代に鍛えられた恩師でもあり、同門の士として親しく付き合うようになった。
 論客で筆がたち、筋を通そうとするMさんは、経済部に戻って活躍したが、デスクや部長と衝突することが多く、編集から展覧会などを担当する企画局に転出させられた。世渡りが不器用な人だけに「正論」をふりかざして妥協しなかったので、企画局でも本流には乗れず、外郭の社会福祉団体「厚生文化事業団」の事務局長で定年を迎えた。
 文化事業団は、朝日に寄せられた寄付金をもとに福祉関係を担当するセクションだが、ここでのMさんの活躍は目覚ましく本領を発揮しながら思う存分に動いた。読者からの寄付金の受け皿的な性格が強かった事業団を、厚生省も手をつけない先端福祉活動に発展させチャリティを主とする慈善団体から”社会福祉のパイロット”へと変えた。
 その一例が、難病の筋ジストロフィ患者の自立支援活動。原因不明のまま筋肉が委縮して手足が動かずに最後は心臓の筋肉萎縮のため20代で若死にする。遺伝的な要素が多く厚生省や医療施設でも手が出せず、限られた寿命の中で詩や小説、絵を書いたり、萎えた手で懸命に楽器を叩いて生き急ぐ若者の姿に感動したMさんは、彼らの支援活動と積極的に取り組んだ。人権問題としても厚生省の無為無策をせめ、一方では患者の全国組織づくり活動を支援して、彼らに生きる力を与えて筋ジストロフィ対策を大きな社会問題としてクローズアップさせた。そして、電動車いすの開発と普及を呼び掛け、障害者福祉に新しい1頁を開く画期的な事業の口火をきった。
 チャリティと称する慈善中心から、障害者の自立支援、介護へと日本の社会福祉が大きく様変わりした1970年代で、社会福祉に対する考え方も大きく変わり、関心も高まる日本の社会福祉の黎明期でもあった。

 たまたま私が編集から転身、Mさんの後任として福祉部門の責任を命じられた。職場が違うから顔を合わせる機会もなく、社会福祉の門外漢である私は彼の活躍や業績についてまったく知らなかった。まさか彼の後を継ぐとは想像もしていたなかったが、かつてG支局長を私淑する同門として気ごころは通じていたので、交友が再開してMさんによって”洗脳”された。そして、社会福祉についての認識を改め、障害者福祉、ボランティア問題などと取り組めた。障害者がツアーを組んで海外旅行をする「車椅子ヨーロッパの旅」を実行した。
 当時は、社会福祉専門のスタフから「車椅子ツアー」の海外旅行など危険で無理と猛反対され、日航からも40名の車椅子団体の搭乗は無理と断られた。ヨーロッパやアメリカで出来ることが、日本でダメというのは納得できないと、北欧の航空会社に頼んで「車椅子ツアー」を実施して成功、手足が不自由のうえ言語障害のある重度障害者だけのヨーロッパ・ツアーも敢行して、5年がかりで軌道に乗せて「もう心配ないから」と民間旅行社に任せた。現在も年に1便、車椅子だけのツアーが実施されており、障害者、それも手足の不自由な人でも海外旅行が出来ると夢を叶えてやるキッカケを作ったのを誇りにしている。
 これも、Mさんから社会福祉への目を開かせて貰ったお陰と感謝している。

 時代とはいえマスコミ、とくにその先達と自負している「朝日」の低迷ぶりは酷い。テレビや週刊ジャーナリズムに影響されて、日本の将来を考えない表面的な現象しか報道しない。とくに政治面にそれが顕著で、日本の政治をここまで悪くしてしまったのはマスコミ、「朝日」の責任ではないかと、OBたちが集まるときまって憤慨する。
 硬骨漢だりを到るところで発揮して、その才能を存分に生かせなかったMさんの嘆きもよくわかる。それにしても卆寿を迎えてなお「ますます悪くなる」と鬱憤を晴らす、旺盛な批判精神には頭がさがる。鬱憤や批判の裏には「朝日」を愛する気持ちが脈々として息づいているからで、定年後も40年にわたって説きつづけてきた盛んな意気に敬服させられた。

 

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