11月 13, 2009

パソコンの"もの忘れ"増長

 中高年の間にもパソコンが普及してネットライフを楽しんでいる高齢者が少なくない。「パソコンをやっているから認知症にはならない」と信じているが、最近、「ネット依存は記憶力を減退させ"もの忘れ"を増長させやすい」と脳科学研究者の間で唱えられはじめられた。年齢には関係がなく、一日じゅうパソコンと向き合う中年会社員の間に、こうした悩みを訴えてクリニックを訪れるケースも出てきたという。
 かつては"ワープロ文盲"、いまは"パソコン文盲"といわれて、パソコンで文章を書くようになってから急速に漢字を正確に書けない人が多くなった。難しい漢字でもきちんと読めるが、いざ書くとなると、朧げな文字は浮かぶが自信がない。思いだそうと焦るとますます正確な字画が吹かばずにパソコンの文字変換に頼る。その繰り返しから、漢字の手書きから遠ざかってしまい、さらに"文盲"の度合いが進む。
 年齢を問わず、多くの人が悩んだり経験する。日頃、パソコンで文章を書く機会の多い人ほどその傾向が強く文字変換に頼るから、いざ改まって手書きで手紙を書こうとすると辞書を片手に四苦八苦、文章の流れも乱れてしまう。漢字忘れを克服するため、せめて日記ぐらいは手書きにと挑戦するが、時間がかかるのとコンプレックスから長続きはしない。
 携帯電話のメール交換から葉書や手紙を書く習慣は薄れる。パソコンのメールも同様、ブログも、ひと昔前と違ってかなり長文なエッセーなどを書くようになって、漢字が浮かばなくても「変換」でなんの苦もなく書きこなせる。悩みだった文盲コンプレックスも忘れて、それが当たり前のように思って気にならなくなる。0002

 ところが、人の名前を思い出せなかったり、車のキーなどの置き場所を間違えて探し回る"もの忘れ"が、年とともに多くなって、さては認知症の前兆かと人知れれず気になる。そんな矢先、脳神経外科医・築山節氏の『フリーズする脳』(NHK出版・生活人新書)に出会った。
 パソコンが突然、機能が停止して操作不能になることを「フリーズ」という、文字どうり「凍って」しまってニッチもサッチもいかない瞬間的なもどかしさは、パソコンを使う人はだれで経験しているだろう。築山氏は脳の機能をパソコン用語で解説、著書のタイトルにするほど、パソコンと脳の関係を詳しく研究している。
 「インターネットと物忘れの関係」「ネットで調べた知識は忘れやすい」「ネット依存に陥っていくメカニズム」などが、具体的な診療例から解説されており、パソコンマニアの陥りやすい落とし穴に共感させられた。
 インターネットを使うようになってから「思い出す力」が低下したと訴える人が多く、ある民間会社の調査で「10代から60代のパソコン利用歴1年以上のユーザーを対象に調べたら、約10%の人がインターネットを使うようになってから物忘れがひどくなったと訴えていた」という調査が紹介されている。
 その原因についていくつか解説されているが、ネットの検索機能を使って即座に答えを出すのが日常化され、かつてのように思考をコーディネートしなから粘り強く「思い出す」努力をしなくなったのが原因ではないかと、指摘している。
 たとえば、「岐阜の名物は?」と聞かれると、地元に縁のない人は岐阜の風景を思い浮かべたりしているうちに「岐阜には山や川があり、飛騨高山を思い出して木工細工をあげたり、長良川の鵜飼から鮎を使った名物があるはずだ」といったふうに思い出す。ところが、現代はパソコンのインターネットで「岐阜・名物」と検索すれば一発で回答がでてしまう。
 ネットは検索ひとつで「なんでも答えてしまう」利便さから、「思い出す能力」が劣化し、やがては「物忘れ」の頻度が増すようになるというのである。

インターネットで得た知識は忘れやすいと築山説は述べている。記憶というものは、能動的に作った手かがりが多いほど、自分の意思で引き出しやすくなるという根拠である。認知症になった人は昔の記憶はしっかりしているのに、昨日今日のことは覚えていないといわれる。痴呆した老婆が、家計が苦しかった新婚時代に買ったバケツを宝物のように押入れに仕舞っておき、嫁が捨てたら大騒動になった話を聞いた。能動的な手による記憶と通ずるように思える。
 ある情報や資料を調べるため図書館に通ったがみつからず、大きな本屋まで出かけて本のページをめくっているうちに偶然みつけて買って帰り、家で読んだ本からの記憶や、人に電話したり、現地へいって調べたことの記憶はもっとも引き出しやすい。多くの選択肢のなかから適切な方法を選び、意志的、計画的に並べて情報に近づいてゆくのは、まさに高次脳機能を使う活動であると、築山氏はのべている。
 そこへゆくと、インターネットのプロセスが単純化され、検索のキーをたたけば瞬時に調べられる。反復したり、努力して自分の記憶にする必要がない。インターネットをあまりにも便利に使うことによって、日常生活の中で、知識を得るまでのプロセスに多様性や複雑さをなくし、思いだす手がかりのない記憶がどんどん増えてゆく。インターネットを使うようになってから物忘れがひどくなったと訴える背景には、こうした点もあるらしい。
 要するに、しっかり調べて、しっかり記憶するという習慣がなくなり、忘れたらまた検索すればよいと安易になって「お気に入り」にいれておけば記憶したように錯覚してしまう。パソコンに限らず、一事が万事で、これが日常的になって物忘れが酷くなるというのである。

 「フリーズ」というのは、凍るように固まって瞬間的に機能が停止するだけで、また回復する。故障や損傷とは違ったパソコン現象といわれている。人間の脳のフリーズも同じで記憶を携わる前頭葉そのものに損傷があるわけではないが、その頻度が多くなると認知症への黄信号にもなると警告している。
 パソコン、インターネットの利便性や有用性は、大いに活用してネットライフを楽しむのは当然だが、ネット依存に陥る危険性も承知しておいたほうがよいだろう。築山氏は「インターネットは現代社会に開いた落とし穴のように、人々をネット依存症の世界に引き込んでゆくところがある」と警告し「ネット依存の人たちは感情系の快を求めている。趣味の情報だけでなく、仕事でも自分のプラスになる情報は快と考える。インターネットはねそれがあまりにも簡単に得られる。しかも、周囲の情報を多面的に捕えようとする脳機能は次第にお休み状態になっしまうから現実の面倒なことは忘れている。そこに嵌まってくると、感情系が優位になっやめられなくなる。これがネット依存症のメカニズムだ」と解説している。
 ネット依存症から抜け出すのには、ネットの世界に入ってゆく最初の段階を外すことから始める。一日のはじまりに、パソコンのメールをチェックしてそのままインターネットを見詰めるという習慣をやめる。ネットサーフィンなど、感情的な快に結び付くので、やめるのはますま辛くなるが、一度、電源を切ってパソコンから離れて外の散歩をするとか、部屋の片付けとか整理をする。部屋の片づけは,高次脳機能を維持する基礎的なトレーニングになることが立証されている。雑多の仕事を見つけては、作業手順を考え、メモに書き留めて実行することからはじめる。こういう習慣を身につけることは脳にとってもよいという。
 ネットライフを有効に楽しむためにも、早速、実行してみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月 30, 2009

ドラマ「不毛地帯」を観て

 上映中の日航問題の問題提起をした映画「沈まぬ太陽」、外務省機密漏洩事件をモデルにした小説「 運命の人」 (全巻)が完結刊行されて話題になった。その間、シベリヤ抑留から帰還、商社マンとして防衛庁の戦闘機選定、外国資本による自動車業界の再編などをめぐる政財界の陰謀と戦う元陸軍参謀の遍歴を語る「不毛地帯」が、30年ぶりに完結ドラマとして放映を開始され"山崎豊子ブーム"は出版・テレビ界を賑わしている。

 フジテレビが開局50周年番組の最後を飾る大作ドラマとして、10月から来年3月までの連ドラ「不毛地帯」(木曜ドラマ)の放映を開始した。山崎豊子の30年前の長編ベストセラーが原作で、過去にも映画、テレビドラマ化が行われたが、大作のため前半だけで終った。最後までの完結は今回のドラマ化がはじめて゛制作側の意気込みは大きかった。すでに3回放映されたが、視聴率は10%前後を低迷、制作者の期待を下回った。
 最近話題の新作「沈まぬ太陽」と「運命の人」の間に埋没、「シベリア抑留問題」や「米国など外国メーカーによる自動車界の席捲」「中東の石油掘削」という、いはば過去の問題への関心の低さに加えテーマの重さが原因ではないかといわれている。
 テレビドラマをみながら、原作をあらためて読みなおしてみると、戦後史で見落とせない日本の防衛問題の内幕、それをめぐる政官商の癒着、米国資本の思惑、それら介在する日本商社の陰湿な競争、さらには中東の石油開発をめぐる諸外国資本の謀略に翻弄される弱体ぶりが露呈されて、その真相を知らされた。
0001_3 テレビドラマでは、原作ほど克明には描けないだろうが、おなじ山崎作品でも「運命の人」や「沈まぬ太陽」よりもスケールが大きく、歴史的事実にもとずく傑作であることを認識して欲しい。主役の唐沢俊樹は、過去のドラマ主役よりも線は細いが、「白の巨塔」から6年ぶり、2度目の山崎ドラマの出演で好演している。来年3月までの放映を楽しみにしたい。

 ドラマの主人公、壱岐正は陸軍中佐の大本営参謀、終戦の天皇の詔勅に対し、参謀総長から命令書が出されていない以上武装解除に応じないと抗戦する満州の関東軍を説得する命令を持参した東京から満州に飛ぶ。そして、関東軍総司令官に命令書を伝達、任務をおえて日本に帰還することになっていたが、日米開戦の作戦起案者としての責任を主張し祖国への帰還を拒み、関東軍と運命を共にする。
 日ソ中立条約を犯して、終戦の7日前に侵攻してきたソ連軍に拘置され、重労働の刑を宣告されシベリヤに送られる。その間、戦犯を裁く東京軍事法廷へソ連側の証人として「戦争責任は天皇にある」と証言を強要されが、拒否したため、あらためて戦犯として11年の刑を宣告されシベリヤ奥地の収容所に送られた。零下30度の極寒の中、重労働を強制され11年の刑期を終えて、最後の引き上げ船で舞鶴に上陸、祖国の土を踏んだ。
 テレビドラマの第一回放送では、2時間のスペシャル番組として、シベリヤ抑留の苛烈な重労働、ソ連の陰惨な謀略と仕打ちを中心に描き「不毛地帯」の実態を克明に訴えている。関東軍の80万兵士が、理由もなしにシベリヤに連行されて重労働を課せられる。ソ連は日本軍と戦闘したことはないから「捕虜」とはいえないので「戦犯」として、重労働25年などの極刑を宣告する。捕虜の場合は、国際法によって扱われて保護される。戦争中、日本軍の連合軍捕虜に対する虐待が裁かれ、絞首刑に処されたが、ソ連の日本人シベリヤ抑留に対する国際的な法的の根拠はなにもない。突然、占領して満州国を領地のように宣言、武装解除した日本軍をソ連人として命名し、ソ連の法律で戦犯として裁くという乱暴極まりない国際法無視である。

 捕虜を戦争目的に使うのは、国際法で禁止されている。横暴をきわめた日本軍もこれだけは守って、連合軍の捕虜を直接、戦争には使用しなかった。後方で建設工事などに使ったが、戦争には直接関係のない建設事業という名目をとってきた。
 ソ連は、本来は捕虜扱いにすべき関東軍の将兵をソ連国民として、裁判にかけて重労働の刑罰を課すというやり方は狡猾で、米英など他の連合軍からも抗議ができなかった。しかも、天皇の責任追及をする法廷証人に、旧日本軍幹部を仕立てるというやり方を「不毛地帯」ではじめて知って、その狡猾な悪知恵に驚いた。
 ドラマの主役である壱岐正中佐をはじめ、鉄道司令官の秋津中将など5人の幹部は東京のホテルで厚遇され、証言を拒否した壱岐らをかばって秋津中将は自決した。証言を拒否した壱岐らは、戦犯として断罪され再びシベリア奥地の流刑地に流される。
 シベリア抑留問題は、ある意味では北朝鮮の拉致問題にもまさる人権問題である。日本政府は、その非道さをソ連に抗議したことはなく、なぜか不明のまま伏せられて現在にいたっている。日ソ友好、日ロ問題のために真っ先に解明されなくてはならないが、80万とされる抑留軍人はすでに老齢化し、国民もシベリヤ抑留の悲劇を知らぬ世代が大半になった。
 「不毛地帯」のテレビドラマで、このソ連の不法さをしっかり見てほしい。「不毛地帯」というタイトルの意味を歴史的な事実として、山崎豊子も訴えたかったのだろう。それが視聴者にも通じたのか、初回の視聴率は20%近かったが、2回目になると9%に急落、低迷を続けている。

 主人公の壱岐は14年ぶりにシベリアから帰国した。陸軍幼年学校から陸軍士官学校へ、さらに陸軍大学を首席で34歳の若さで大本営参謀になり、太平洋戦争の作戦を起案した陸軍の超エリートだった壱岐に対して、防衛庁は熱心に自衛隊入りを口説くが「戦争で多くの犠牲者を出した責任から、二度と防衛関係の仕事はしない」と、防衛庁入りを拒否した。
 関西系の近畿商事の大川社長は、はやくから壱岐に目をつけて入社を懇願していた。軍人の世界しか知らない男が商売には不向きと断り続けたが、根負けして社長付き嘱託として入社を快諾した。「私の軍歴を利用して防衛関係の商売という狙いなら断る」と条件をつけ、社長も無条件でそれを認めて、繊維部に配属した。
 その頃、東京では防衛庁で第二次防の戦闘機種選定をめぐって、商社間で熾烈な戦いが展開されていた。防衛官房長が防衛現場を指揮する空幕長の意見を無視、政界工作も絡んで名門商社が仲介する米国A社の戦闘機が閣議決定の寸前だった。試作は2機しかなく、性能にも疑問が多く、壱岐の近畿商事が推すロッキード社の新機種が性能的にも優れ、邀撃専門の日本の戦闘機には最適と自衛隊幕僚部も推薦していた。
 それが名門商社の仲介と総理などへの政界工作から、性能が未知の機種に決定するのは、日本の空の防衛に由々しいと、聞かされた壱岐は翻意して戦闘機選定をめぐる商戦に参加する決意をした。国益を損ねてはという軍人特有の血が騒いだのである。
 士官学校、陸大同期の親友であるK空幕長に真偽をたしかめたら、性能的にも優れ、日本の防衛に最適のロッキード社のF-2に決定するよう協力してくれと頼まれた。そのためには、価格リストなど内部資料の提供もするからと、内密の連絡ルートもできた。壱岐は終戦時に顔見しりになった政界の有力者に、官房長が推すA社の戦闘機は試作機は2機しかなく、いかに危険かの情報を伝え、総理派への政治資金を提供して閣議決定を延長させるのに成功した。
 閣議決定の延期に疑問をもった防衛官房長は、特務隊に命じて壱岐の部下でかつて防衛庁資料部にいた自衛官が戦闘機の価格リストを漏洩したのを突きとめて告発、逮捕させた。やがて壱岐も警察の取り調べを受けることになる。
 ここでドラマの第三回は幕となり、続きは来週に持ち越された。

 ここまでは、ほんの序の口で、これからがドラマの本番を迎える。原作によると、壱岐は官房長の推す米国A社の戦闘機をばすし、不利とつたえられていたロッキード社のF-2を二次防の戦闘機として閣議決定に持ち込んで逆転勝利をする。
 それを機縁に航空担当となり、各商社の"航空戦"の渦中の人となって注目を集めるようになる。防衛関係の仕事はしないと明言した志とは違った結果になって、その運命に巻き込まれてゆく。国益第一、国防が損なわれると聞かされて壱岐の軍人の血が騒ぎ出したらしい。
 その後、外車導入による自動車メーカーの合併、再編成の仲介にアメリカのフォードなど世界の自動車メーカーと渡り合って日本の自動車メーカー保護のためニューヨークに飛んで、虚々実々の駆け引きや交渉を展開、その道でも内外で一躍有名になる。さらに、中東の石油開発問題に乗り出してイランの王家一族やメジャー各社と採掘権をめぐる熾烈で陰謀の渦巻くエネルギー合戦の指揮をとる。
 シベリア帰りの大本営参謀の波乱の人生を綴る人物ドラマと思っていたら、二次防の戦闘機種選定をめぐる政官癒着の陰謀と介在する商社の熾烈な戦い、外資による自動車メーカーの攻防と再編の影にうごめく商社の存在、さらに中東の石油開発をめぐる国際的な利権争いの内幕の複雑さなど、はじめて知る社会派ドラマの虜になった。全5巻、3000㌻におよぶ超長編のエンターティメントである。
 テレビドラマは、キャストのキャラクターや演技に左右されやすく、原作とはイメージが異なる場合が多いが、来年3月まで20数回にわたってゆっくきり楽しむのも悪くはない。重いテーマーだからと、視聴率はやや低迷しているが、壱岐をめぐる色恋沙汰もあり、アメリカ、中東の風物など結構楽しめるだろう。

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

10月 28, 2009

"風邪は外に落としておいで"

 信州の北部地方に「風邪は外に落として来れば治る」という俗言がある。風邪をひいて快方に向いたら、大事をとって家に籠っているよりも、外に出て新鮮な外気を吸ったほうが回復が早い、という意味である。一般的に知られている「風邪は人にうつせば治る」という俗言とも一脈通じたものがあり、薬漬けで安静第一主義の現代医学界への揶揄とも受け取れる。
 夏の終わりに風邪をひき、持病の喘息もからんで長引いた。医者に「レントゲン写真に変な影があり、肺炎の疑いもある」といわれて驚いた。咳はとれなかったが、特別の自覚症状もなく前日まで週4回の水中歩行を日課にしていた。とくに疲労感もなかっただけにショックだった。血液検査では炎症の数値はそれほど高くないのにと医者は首をかしげながら、抗生物質、気管支拡張剤、ステロイド剤を処方し、体操、水中歩行などはドクターストップ。
 そして、安静を命じられ一夜で病人にされてしまった。若いときに結核を患わった経験から、医者の指示を忠実に守るようになっていた。言われるままに10種近くの薬を飲みつづけ、秋晴れの空を羨ましげに眺めて一日の大半は横臥の身となった。2日おきに通院、検査の連続でその都度、薬の処方が目まぐるしく変わる。
 執拗に続いた頑固な咳も下火になって症状は改善されたが、気力が衰えて欝状態に陥り不眠の日が続いた。過去に多くの病を克服してきた体験から、薬漬けによる副作用ではないかとか考え、血圧、甲状腺など持病以外の薬は独断で服用をやめた。「安静」の指示も破って、家の中を動きまわり、テレビの流し見はやめて読書に専念したら、不眠は解消して脱力感もなくなった。次の診察日に、薬の処方を中止して、安静は解除し軽い運動は許可して欲しいと訴えたら、医師もそれを認めて、プール以外はOKとなった。

 このとき思い出したのが、幼児期から祖母に「風邪は外へいって落としてきなさい」といわれた信州の俗言である。風邪をひいて熱も下がり、咳も下火になって快方に向かうと、外の空気に触れないと治らないから「外へ行って風邪を捨ててきなさい」と、追い出された。
 寒い土地柄だから、「またぶり返さないか」子ども心にも不安で一杯だった。昔の年寄りは、孫の症状をよく観察していて、外に出すタイミングを心得ていた。それを知らずに、祖母を恨んだこともあったが、外へ追い出され外気に触れたり、遊びまわると不思議に元気が出て風邪も完治した。どういうタイミングで「外に落としおいで」というのかは、分からないが祖母の言いつけはいつも的中した。同郷の妻や友人からも、同じような体験談を聞かされた。
 こんども、医者のOKが出たので、休んでいた健康体操の会に出席、軽いストレッチをしたら元気を取り戻した。レントゲンの影はどうなったかよく分からないが、医者は「ジムでも軽い自転車漕ぎやウォーキングミルはOKです」というので、ジム通いも復活させた。秋の日差しのなか、軽いドライブも楽しむので、「日光を浴びると睡眠がよくとれる」といわれるとおり、あれほど苦しかった不眠からも解放され夜も怖くなくなった。
 「風邪は人にうつせば治る」というのは、医学的にはなんの根拠のない俗言に過ぎない。その解釈にもいろいろあり、風邪の回復期にはウィルスが体内から発散するという説がある。人にうつすのは困るが、回復期になると外に出たくなるという解釈は、「外に捨てて来い」という俗言と似ているように思えた。

 医学界の「安静第一主義」には疑問がある。昔の結核療養は「一に安静、二に安静」といわれ、療養所ではひたすら安静療法が励行された。午前に1時間、午後は2時間をきちんと安静、それも眠ってはいけない。うつかり眠ると、夜の睡眠ができなくなると、看護師さんが見回りにきて眠らないよう注意された。本もご法度なので、こっそりラジオをイヤホンで聴いた。そんな時代が懐かしいが、「安静」がそれほど効果があったか疑問である。
「安静」の効果について、最近、こんな研究を知った。
オランダの大学で、坐骨神経痛の治療に、安静治療の患者と、仕事など通勤しなが治療させた患者を無作為に抽出して比較、観察した結果、神経痛の回復度にはまったく差がなく、安静にせず活動しても無害であることが立証された。「安静を指示すると、患者によっては重病であると誤った認識を与えられて回復が遅れる」という指摘もあり、世界的な整形外科医たちも、この説を積極的に支持しているという。ベッドでの安静が最高の治療法というのが世界に共通した考え方や定説も怪しくなってきた。
 外科では大手術をした翌日から、廊下などを歩かせる。安静第一主義からの脱皮である。悪いところは切り取って問題がないから、筋力低下を防ぐために「歩け、歩け」という。
 ところが、保守的な内科は、昔どおりの「安静」を守っている。たしかに、坐骨神経痛や外科とは違うのだろうが、症状がきえて病状が安定しているのになお「安静」を強いるのはどうだろう。長くベッドに横になっていると、足腰の筋力が衰えて病気が治っても歩くのに苦労する。
 私の経験から、喘息で1週間入院しただけで、脚の筋肉が衰え歩くのに支障、たった7日間でとショックを受けた。知人が肺炎を患って2週間入院したが、同じような経験を聞かされた。今回の肺炎騒ぎでも、同じ悩みに遭遇して早く筋トレを始めなくてはと痛感した。
 医師も看護師も揃って「安静、安静」と唱えるのは、内科の保守性だろうか。
 検査、検査の挙句、薬漬けという医療体制は、医療費の増額にもつながる。こんなとき「風邪は外に落として」の俗言のほうが、自然療法の摂理に適っているように思えてならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月 16, 2009

映画「さまよう刃」を観て

 極悪化す青少年犯罪と少年法をめぐる"罪と罰のバランス"に問題を提起した、東野圭吾のベストセラー小説「さまよう刃」が映画化された。娘を青少年グループに拉致、暴行されたあと殺害され、怒りと悲しみから復讐する父親、それを追う捜査官が、それぞれの立場から法と正義の狭間に苦悩する社会派ドラマ、「私ならどうする」と考えさせる深刻な問題を投げかける。
 原作は5年前に刊行され、昨年、映画化の発表と同時に文庫本(写真)になると、150万部のベストセラーとして評判になった。原作は500㌻におよぶ長編だが、凄絶な犯行描写や娘を殺された父親の悲嘆と絶望、犯人への追跡に協力する周囲の人たちの同情と共感、さらには犯人の1人を殺害して殺人犯となった父親を追う捜査陣の葛藤と悩みを克明に描く。ミステリータッチで読者を惹きつけて一気に読ませるのは、直木賞の東野圭吾ならではのドラマである。
 そのエンターティメントを2時間そこそこの映画にどうまとめるか、はたして原作の迫真力と重い問題提起をどこまでクローズアップできるか興味があった。「正義の味方か。違うな。法律を犯した人間を捕まえているだけだ。警察は市民を守っているわけじゃない。警察が守ろうとするのは法律のほうだ。法律が傷つけられるのを防ぐために、必死にかけづりまわっている。法律は完璧じゃない。それを守るためなら、警察は何をしてもいいのか。人間の心を踏みにじってもいいのか」と、原作のラストで捜査指揮をした警察官の口を借りて語らせた、著者のメッセージを映画は果たして伝え切れるのだろか疑問に思っていた。
 ベテラン俳優の寺尾聡のキャラクターと演技力が、それを見事にカバーして、原作ほど直接的ではないが、人の命を単なる肉体としか思わず暴行、殺人をゲーム感覚で行ってきた主犯少年が、寺尾(娘を殺された父親)に銃を突きつけられて恐怖感に顔をひきつらせ、わなわな震えるシーンは圧巻だった。「死の恐怖感にさらされないと、彼らは命の重さが分からないのだ」という寺尾の独白は、原作者のメッセージを上回る説得力があった。Image0010_5

 一台の黒い車が、夜の道で少女に忍び寄って強引に車内に連れ込み、女の子の悲鳴が闇を切り裂く。翌日、荒川べりの河原で少女の死体が発見された。腕には麻薬の注射痕が数カ所、遺体には2人の男の体液が残されていた。知識もなしに乱暴に打った麻薬のため心不全を起こして死亡、河原に捨てられた、と捜査陣は判定した。
 翌日、身元が判明、会社員長峰重樹(寺尾 聡)の一人娘、中学生の絵摩と分かった。2年前に妻を亡くし、絵摩だけを生き甲斐にしてきた長峰は、警察からなんの連絡のないまま悲しみに暮れて茫然自失に陥った。数日後、犯人の名前と住所を告げる密告電話がかかってきた。真偽のほどは分からず逡巡の末、長峰は告げられたアパートへ向かう。
 留守宅へ上がり込んで、部屋を物色すると数本のビデオテープがみつかり、その中に娘の絵摩が麻薬を打たれて2人の男に犯されている模様を録画したテープがあった。犯行の一部始終を目の当たりにし、娘を弄んで楽しんでいる犯人の声にうちのめされた。たまたま帰宅した犯人の1人を後ろから襲い、復讐の鬼となって惨殺(映画にはないが、陰部を切断して恨みを晴らす)した。虫の息で死ぬ寸前の犯人から、主犯の菅野快児の潜伏先を聞き出した。
 「信州のペンションに潜伏している」という言葉だけをたよりに、長峰は警察に「犯人の一人を殺したのは自分である。主犯の菅野を追って復讐の旅にでる。始末をつけてから自首するからそれまで待ってくれ」という意味の手紙を書き、会社にも届けた。警察は長峰の手紙から、犯行現場のアパートに踏み込むと、あまりにも凄惨な殺害に驚き、さらに現場に残されたビデオテープから彼らの犯行の詳細のほか、他の少女たちを同じ手口で襲って暴行しテープ録画に悪質な犯罪の実態をはじめて知った。
 主犯の菅野をリーダーに高校中退の3人グループで、車を提供して運転や見張り役をさせられ、暴行などには加わらなかった中野誠が巻き込まれるのを恐れて、長峰に密告電話してきたことも警察は突き止めた。

 娘を殺した主犯の菅野を追って長峰が長野県に入ると、その長峰を警視庁は犯人殺しの殺人犯として全国に指名手配して捜査陣を長野に送り込み、長野県警の協力を要請する奇妙な展開になった。本来なら女子中学生や高校生を次々に襲っては暴行するグループの主犯である菅野の行方を警視庁は追うべきなのに、被害者でもある長峰を追跡する構図は納得できない。仇討や復讐は禁じられているといっても、こんどの拉致、暴行殺人事件を起こした主犯を警察がかぼって保護する結果にもなり兼ねない矛盾に、捜査陣の警官の間にも疑問と苦悩が見え始めた。なかには、警視庁の指令を無視し長峰にこっそり情報を流して支援する動きもでてきた。心情的には長峰に同情を寄せる捜査員も少なくなかった。
 「自分の娘や家族が長峰と同じような目にあったら、復讐して犯人を生かしておかない」と公言して、長峰の犯人探しに協力する空気がペンション経営者の間に生まれた。警視庁の指名手配ポスターの写真をみて、長峰と似ていると思っても通報しなかった。
  廃業中のペンションに潜伏という手掛かりしかない犯人探しは進展もなく、長峰は疲れ果ててある高原のペンション流れついた。経営者の父親を手伝う中年の木島和佳子は、挙動から長峰と見抜いて彼をかくまう。長峰もはじめて素情を明かし、パソコンに取り込んで携帯していた娘が暴行されたビデオテープをみせる。子供を事故で亡くした和佳子は身につまされて、犯人探しの協力を申し出る。迷惑をかけるからと断るが、父親の木島隆明が長峰を慰めようと猟に誘い「これだけ頑張ったのだから、死んだ娘さんも納得してくれだろう」と、翻意を促す。
 ペンションに帰ると、警視庁など捜査員が待ち伏せしていた。木島は警官の前に立ちはだかって阻止、長峰に猟銃とジープを渡して逃亡させる。警官たちも、深追いをせずに逃亡をみのがす。彼らも心情的には長峰に同情、警視庁の指令のままに行動しなかった。

 数日後、主犯の菅野は、かって拉致、暴行した女子中学生と小諸市郊外の廃業ペンションに潜んでいることを捜査陣は突き止めて、浅間山麓の雪原のなか逮捕に向かう。最初から事件捜査に加わっていた警視庁捜査一課の織部孝史刑事(竹野内豊)は、被害者でもある長峰逮捕に積極的な警視庁の方針に疑問を抱いていた。長峰に娘の仇を討たせてやりたいという気持ちから、主犯の菅野が浅間高原の空きペンションに潜伏していると長峰の携帯電話に匿名で知らせた。浅間山麓の雪原を、復讐劇の最後の舞台としてやりたかったらしい。
 警官隊がペンションに踏み込むと、連れの少女が大声をあげて菅野を逃がした。逃亡資金稼ぎに売春していたことを自白、捜査員は「そんな男を逃がすのか」と呆れ、逃亡先を「川崎駅」と吐かせた。織部刑事は、近くに隠れていた長峰の携帯へ「川崎駅に逃げた」と流す。法の枠を越えても、長峰に不条理に殺された娘の仇を討たせやりたいという思いにかられていた。
 最後の舞台は、人混みで賑わう川崎駅前の歩道橋(原作は上野駅)に移る。不良グループの仲間に逃亡資金を持参するよう強要、落合場所を歩道橋と指定した主犯・菅野を待ち伏せる大捜査網が張り巡らせれる。仇討のため菅野殺害をねらう長峰が猟銃を持っていることから、警視庁は捜査員に拳銃を持たせ、万一の場合は長峰射殺も辞さない態勢をひく。
 法律では仇討は禁じられ、長峰はすでに犯人の1人を殺害した殺人犯である。主犯の菅野の長峰絵摩殺害は立証されていない。法に照らして、菅野を仇討から守るため長峰射殺は正当という論理である。被害者でもある長峰に同情的な捜査員が多く、本部の指令どうり引き金をひくべきか迷い、法と正義の狭間に"さまよう刃"の拳銃を手にしながら捜査網をしぼっていった。映画に映し出される捜査員の表情からも、そのさまよいが窺われる。
 やや遅れた現れた主犯・菅野は、緊迫した雰囲気に危険を察知、歩道橋から駅前広場の人混みに逃げる。通行人の女性を盾に逃亡しようとする先に、猟銃を構えた長峰が立ち塞がっていた。その剣幕に押されて盾にした女性を放す。長峰は菅野に近寄って銃口を彼の喉元に当てて無言のまま対峙する。
 そのとき、警視庁の捜査本部長から「撃て」と射殺命令が出た。拳銃を構えて長峰ににじり寄る捜査員の前に、突然、織部刑事が立ちはただかって「待て!!」と阻止、捜査員は引き金から指を放して、長峰と主犯・菅野の息詰まる対峙を見守る。少女たちを拉致、連行しては凌辱、暴行を繰り返し、反省の色も全くなかった菅野の顔が、みるみるうちにひきつり、死の恐怖にさらされてもがく。長峰は執拗に銃口を突きつけたまま動かない。菅野は逃れようと後ろに倒れる。群衆がその緊迫した光景を見守り、いつ長峰の銃が火をはくか固唾をのむ。
 突然、一発の銃声がして長峰は、背中を血に染めながら倒れて動かない。菅野の上着を握ったまま放そうとしない。菅野はその手をもぎ放そうともがきまわる。捜査員が駆け寄って菅野を取り押さえる。長峰はすでに事切れたまま横たわっていた。
 拳銃を発射、長峰を射殺したのは、この事件を最初から担当してきた警視庁捜査一課のベテラン刑事真野信一(伊東四朗)だった。長峰に同情、犯人の動静を密告したり、捜査員の拳銃発砲を阻止した織部刑事の先輩でもある。

 「長峰の猟銃には弾は入っていなかった、空砲だった」
 真野刑事は織部刑事に打ち明けた。真野は、それは知らなかったが「長峰ははじめは主犯を射殺して娘の仇を討つ積りだったが、そのうちに気持ちが変わって、ただ復讐するだけでは意味がない。ああいう連中に"命の重み"を自覚させるのには、死の恐怖に晒して、とことんまで追い詰めるしかないと悟ったらしい」と寂しそうに漏らした。
 警察官らしく法に従ったという気持ちはなく、真野も後味の悪さと、法と正義の間に悩む割り切れなさを感じていた。映画の観客や原作の読者も同じではないだろうか、とキャストの名前だけが流れる暗い画面を見入っていた。
  

 

| | コメント (2) | トラックバック (1)

10月 06, 2009

医者には"神様の顔"

 ヨーロッパには「医者には三つの顔がある」という警句があった。
 医者に脈をとられているときは"天使の顔"、治療を受けているときは"神の顔"、ひとたび治療費を要求されると"悪魔の顔"に見える、というのである。この警句は、ローマ、ギリシア時代に遡る古いもので、風刺詩のひとつして長いあいだ語り継がれてきた。
 「医は仁術」という東洋思想とも一脈通ずるものがあるが、「悪魔の顔」という言い方はいかにも西洋らしい。

 腹の調子がなんとなくスッキリせず、心配になって主治医を訪ねた。診察室の天井を指さしながら「あれですよ」というだけである。禅問答のようで首をかしげていると「お天気のせすですよ」と説明して、くわしい診察はしない。
 腹具合と天気がどんな関係があるか知らないが、主治医の一言に安心して、翌日からは症状も嘘のように消えて元気になった。
 体の不調を訴えるたびに「T先生の顔をみてきたら・・」と家の者に言われる。病院へ行っても、型どおりの問診と触診だけで「たいしたことはありません。薬も要りません」と軽くあしらわれるが、とくに不満はなく主治医の顔をみて声を聞いただけで元気になる。西洋の警句そのままに、"天使"に会っているような錯覚に陥る。家の者も主治医も、病気に対しての神経質ぶりを見抜き、その辺をよく心得ていて適当に扱われてしまうのである。

 そんな関係を30年ちかく保ってきて主治医のT先生の手から離れることになった。
 関東のある政令都市の市立病院副院長で、専門は消化器外科、手術にかけては評判の名医とされ多くのガン手術も手がけて実績をあげている。手術を受けて回復した人や世話になった患者たちが集まって「T先生を囲む会」をつくって、旅行などを20年も続けている。
 会員は200名ちかく、こうした患者会は珍しい。そのT先生は15年前、定年退職のあと私立病院に勤務したが、自分の患者のアフターケーの受け皿にするためだった。その後、再び市立病院に乞われて、かつての患者たちを主に週1回だけ診察しているが、評判を聞いて診てまらいにくる新患者も多く予約への割り込みも難しいほどだ。
 82才という高齢に加えて、電子カルテの導入などで「メスを執れなくなったら辞める」を口癖に来春は、診察の現場から去ると宣言、「他の医者を探すように」といわれていた。
 T先生との出会いは28年前の胆石手術である。胆石はあったが、痛まなかったので15年近く放っておいた。痛みだしたのでT先生の手術を受けるため入院、胆嚢を切除した。造影剤も入らぬほど40個もの石が詰まっていた胆嚢は一部が肝臓に癒着していた。
 肝臓からの剥離もうまくゆき、手術に立ち会った外科医は「成功」と開腹を閉じようとした。「3時間後には切り取った肝臓から胆汁が流れだす恐れがある」と、T先生は胆汁を外へ排出するゴム管を3本付けるよう指示した。立会い医たちは「こんなに綺麗に剥離できたのに」と首をかしげたが、3時間後には黒い胆汁が流れだした。
 「あのまま腹を閉じたら、胆汁が腹部にたまって腹膜炎をおこし危険になるところだった」と、後日に明かされた。命拾いをして評判どおりの名医ぶりを知った。朝、昼、夕と日に3回は、手術や外科部長の多忙の中を縫って病室に顔を出し、日曜には時間があるからと丁寧に説明するために病院にくる。腕が確かだけでなく、その誠実さが多くの患者を惹きつける。

 初診者に対して「私のようなヤブ医者でよいのですか」というのがT先生の口癖で、紹介した知人から「本当に信用してよいのか」と念を押されることが、なん度かあった。患者の症状に対する訴えや不安には熱心に耳を傾けるが、自分の診断には確信をもっている。患者の訴えによって診断がコロコロ変わるようでは、名医とはいえない。
 胆嚢手術をした1週間目に激しい下痢に襲われた。夜中に十数回トイレに駆けつける激しさに看護師も見かねて「絶食」の指示を求めた。まだ三分粥しか許さなかったが、「手術のため一旦、外に出された腸が腹におさまる調整作用の影響で心配ない。きょうから五分粥にする」と取り合わず「食事を摂らないと腸の調整が遅れてしまう」と、目の前で食事を摂らされた。
 食欲はまったくなく下痢で憔悴しているので、指示どおりやっとの思いでお粥を飲み込んだ。食事を済ませたのを見届けてT先生は「あすの朝は下痢がぴたり止まりますよ」と言い残して四国で開催される消化器学会に出かけてしまった。このときほど、先生を非情と恨んだことはなかったが、翌朝は下痢がぴたりと止まって快便になって先生の言うとおりになって、診立てを変えない診断の確かさに驚いて逆に尊敬するようになった。
 それ以来、この医者ならと心に決めて、消化器以外の病気など健康管理のすべてをお願いすることにした。定年後、車で1時間もかかるところを来る必要はないから、血圧や持病の管理は近所の医者に掛かりなさい、と指示された。持病の甲状腺亢進も落ち着き安定していたので近くの医院に替えた。その1年後に突然、持病が再発し、またT先生のところへ逆戻りして30年もお世話になった。その間、喘息、肺炎などを患ったが、適切な処置で事なきを得た。
 同じような経緯で、T先生のところへ逆戻りする患者がふえ、いつのまにか病友として付き合うようになった。その輪が次第に広がって、診察日に顔を合わせるのが楽しみになった。それだけに、T先生の引退は惜しまれ残念がられた。"天使の顔"と"神の顔"を併せ持っているように尊敬していた患者たちの多くは、先生のメスでガンから生還したり、大手術を克服して生き永らえた人たちが大半である。

 医者が神様にみえた経験は二度ある。いずれも全身麻酔をする大きな外科手術をしたときで、執刀する外科医の顔が神様にみえて拝みたくなった。執刀医の腕によって生死が決まる場合もあるから神様にみえるのも当然である。
 神様は自分勝手に簡単に選べないように、どんな医者と巡り会うかは運命である。患者はとかく手術をしてもらう主治医の腕を自慢したがる。その心の底には、自分の神様は一番だという意識と、無理してもそう信じた込みたい心理が働くのだろう。
 「悪魔の顔」という実感はあまりないが、病院のどこでも無愛想である。街のクリニックなどの窓口で最近は患者の名前を呼ぶのに「さん」ではなく「さま」と、丁寧語を使うのが共通しており、番号表示の公立や大学病院とは対照的である。ただ、訳も分からずに、あまり待たされると、悪魔の召使を連想したくなる。
 医師不足といわれながら、これだけ医療情報が氾濫すると一番難しいのは医者選びである。神様の世界のように医者同士は互いに悪いところは隠しあって表に出さないから、運と考えて信ずるしかない。だれでも、神様にあやかりたい気持は同じだろう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

9月 22, 2009

秋口の喘息シーズン

 残暑も去って爽やかな秋口を迎えると、毎年決まったように喘息に悩まされる。今年は、異常気象で夏が短く、不順な天候が続いたためか、喘息症状が長引いてシルバーウイークの大型連休を楽しめなかったが、「治療よりも予防」という喘息との上手な付き合い方を体験し"喘息革命"の糸口をみつけたのは大きな収穫だった。

 喘息の苦しみと悩みは、それを体験した者でないと分からない。発作がおきない日中などは普通の人と同じように働いたり外出もしているが、就寝すると夜中や明け方に喉がゼイゼイなって息苦しくなる発作に襲われる。何日も続くと、今晩もまた発作がと恐怖症に陥り、睡眠不足も重なって気力、体力が減退する。
 人それぞれによって喘息の起きる原因や季節も違うが、私の場合は杉花粉の春よりも、秋分の日前後が多い。小児喘息は成人になると治るケースが多いが、最近はアレルギーや大気汚染によって成人になってから突然、喘息になる人が56%もいるという。
 喘息治療に対する考え方も、1990年から根本的に変わって、新しい治療法が確立されたため一般の内科医では対応できず、知識も乏しく悪化させるケースも少なくないという。また、たかが喘息と甘くみて発作への緊急対応を遅れて誤ると、瞬時に呼吸不全から命を落とす危険もあり、喘息への認識の重要さが指摘されるようになった。Image0008_2

 親族など家系には喘息の者はおらず、50代後半までは喘息には無縁だった。風邪をひいたとき喘鳴がして気管支がゼイゼイ鳴ることはあったが、2、3日にすれば治っていた。またまた春先に風邪を長引かせたまま仕事を続け、小康状態になると長期旅行もした。それが祟って突然、ダウンして入院、一般内科では手におえず喘息専門の呼吸器科にまわされた。
 動脈から血液を採って炭酸ガスの濃度を調べたら、呼吸不全に近い状態で炭酸ガス濃度は危険数値に達していた。呼吸困難になる苦しみをさほど感じない状態になっていたので、軽く考えていたら、ステロイド剤などの緊急処置で4時間後には血中の炭酸ガス濃度も正常に戻り、「もう一時間対応が遅れたら危なかった」と、はじめて明らかにされて驚いた。
 喘息の恐ろしさをはしめて知らされた。当時は日本の医学界では喘息に対しては気管支拡張剤で気管支を広げて、呼吸を確保する治療が主流だった。アメリカでは、喘息は気管支の炎症が原因で、それを治めるステロイド剤を使う治療法が確立され、たまたま私の担当医はアメリカ留学でステロイド治療を体得していたのが幸いした。
 ステロイド剤は、日本ではアトピー皮膚炎に著効はあるものの、その副作用の恐ろしさから敬遠され、喘息治療にはほとんど使われない時代だった。この薬は諸刃の剣で、効果は大きいが副作用も激しいとされ、その処方も慎重に行われていた。

 それ以来、秋口になると決まったように起きる喘息に、その担当医から軽度のステロイド筋肉注射をしてもらうと一回で発作が治まり、それ以後は起きないようになった。副作用の怖さを認識しているので、秋口のほか気候変動期の春先や梅雨どきに発作がでると、1本だけ注射してもらい、年間に3回を限度として20,年間、そのルールを守ってきた。
 秋口に海外旅行に出かける前も、喘息の発作はなくても用心のためステロイドの注射をしてなにごともなく楽しんできた。そうして、いつの間にかその注射が守り本尊のように信じて、喘息の発作に苦しむこともほとんどなくなった。
 ところが、通っている病院では、今年からそのステロイド注射は扱わないようになり、別のステロイド注射に変更した。ことしは例年になく、喘息の発作の頻度が多く、新しい注射もあまり効果がなく、症状が一向に改善しなかった。ステロイドを教えてくれた担当医は、数年前に他の病院へ移り、消化器外科が専門の主治医がそれを受け継いできたが、高齢のため退職することになり「近くの呼吸器科を探して欲しい」と勧められた。

 医者不足といわれる中、私の住む街には県立がんセンターをはじめ大学病院をはじめ100ベット以上の病院が幾つもあり、駅前のビルには各科の内科クリニックが軒を連ねる医院ラッシュである。数が多いと選択も迷うし、評判もまちまちで決断がつかない。
 インターネットのホームページ検索で、「呼吸器科」と看板を掲げるものが13箇所もあった。そのなかで、かって整形外科医に紹介され、行きつけの薬局からも勧められた開院歴15年の女医さんが院長のA医院を選んだ。ホームページにも設備が詳しく紹介され、院長の経歴や看護師、栄養士などのブログも載っていた。
 「私はステロイド治療は致しません。喘息は治療というよりも予防をする病気です。喘息だけでなく高血圧、糖尿病、甲状腺も一緒に管理してゆきます。この方針に納得、賛成されるなら、私にお任せしてお預かりいただきます」 診察前に、自分のプリンシプルを説明する医者は少ない。この女医さんならと、命を預けることを決めた。
 胸部X線検査、心電図、血液検査、アレルゲンチェック、血圧管理など、一通りの検査をして喘息の状態を観察、診断の結論をだすという。控室には診察待ちの患者が溢れていたが、説明が丁寧ではっきりしているのが、私の選んだ条件にぴったりだった。
 そして、勉強してくださいと、「ぜん息パンフレット」というA4判・34㌻のカラー印刷小冊子を渡された。ステロイド剤を喘息治療の守護神のように思い、そのシーズンには1回注射すればOKという私の喘息観は誤り。「予防」に重点をおいて、いかにコントロールして自己管理してゆくかの大切さを認識させられ、目から鱗が落ちた思いだった。

 喘息治療は、ステロイドの微量粉末を吸入して気管支の炎症を治す方法が米国で行われ、日本でも広く行われているのは承知していたが、発作を抑えるための一時的なものでなく、予防のため発作がないときも吸入するとは知らなかった。
 気管支拡張剤と非ステロイド剤の吸入剤と、微量ステロイドの吸入剤を処方された。注射や飲み薬と違って微量のため肝臓に吸収されて副作用も少ないと説明され、喉を予防するための炎症どめの嗽薬も出すなど、専門医ならではの細かい配慮がされいた。
 もらったパンフレットを読んで、喘息のメカニズム、ピークフローメーター(最大呼気測定)を使って肺機能の状態を毎日観察する。体温計のように携帯もでき自宅で常時計測できるし、費用も3500円前後とリーズナブルなことを知った。予防自己管理といっても、実際にどう行うかわからなかったが、機器類を使う具体的なやり方もはじめて分かった。
 病気への取り込み方は、どんな医者にめぐり会えるかによって大き左右される。それになによりも、この医者に任せておけばという信頼関係が第一である。なかなか、そうした医者にめぐり会うのは難しい。命を預けるのだから、慎重になるのは当然で、自分が信頼できる医者とめぐり会えるかは運命的なものでもある。
 秋口の喘息シーズンに、よい医者にめぐり会えたのは幸運である。素人が余計なことを聞くなという風潮は医者のなかには少なくない。基本的な原則をわきまえずに枝葉の症状だけで云々されるのは医者には迷惑かもしれない。医学情報や知識が氾濫すると、的外れや見当違いの質問をする患者も少なくないだろう。
 それを承知で、一緒に勉強してゆこうとして資料を渡してくれる医者は貴重な存在で、とくに一生離れられない喘息との対応に、そういう医者にめぐり会えたのはラッキーだった。
 

| | コメント (2) | トラックバック (4)

9月 08, 2009

「国会」陣取り合戦に攻防の怪

 政界や国会には、一般常識が通用しない面が多いが、「国会議員控室」の入れ替えをめぐる民主、自民の攻防が本格化して火花を散らしている。大敗した自民党が結党以来しめてきた表面の玄関側の陣取っていた議員控室の明け渡しを拒み、裏側の控室を割り当てられいた民主党は国会規則を改正して表側に出ようと"開城"を迫っている。

 議員数も多く、常に第一党の座を独占してきた自民党が、こんどの総選挙で議席数が半減しても広い控室を占拠し、一方、議席を308と倍増させて第一党になった民主党が裏側の狭い控室に溢れているのは、自民党の横車としか映らない。
 山岡民主国対委員長は、「自民党に勝海舟はいないのか」と、幕末の江戸城明け渡しを引き合いにだして、自民の大島国対委員長に"無血開城"を迫る一幕もあったが、自民は「公式には回答できない」と拒否、結論を先送りした。
 国会議事堂の南半分を占める衆院には、委員会室や事務室を除いて約300の控室がある。選挙ごとに議員1人に約1.5平方m換算で各党の専有面積を決め、控室を割り当ててきた。長く衆院第一党だった自民党は、日当たりがよく、皇居を正面にみえる表玄関側の控室に陣取ってきた。本会議場の議席配置は、議長席から向かって右側(正面側)が与党のため、控室も与党が正面側を使うという理由だった。
 ただ、衆院の先例集には「議員の控室は会派別に定められる」とあるだけで、入れ替えを強制てせきる根拠はないと、自民は明け渡しに応じようとしていない。
 しかし、民主政権になると、衆院規則で与党になる民主は右側の議席となり、敗れた自民は左側に変更になる。控室が現在のままでは、本会議場への通路で民主と自民が交差するようになり、国会紛糾の場合など混乱して収拾がつかなくなる。

 自民党側は、控室の入れ替え移転に数千万円の費用がかかり、税金の無駄遣いになると、反対理由に掲げている。国民の目からみれば、たかが議員控室の引っ越しに、なぜ1億円近い拒否がかかるのか疑問の声もあがっている。机、絨毯、調度品などは備え付けが多いのに、そんな豪華なものを国民の税金でまかなっていたのかと批判の声もでて、思わぬ藪蛇の恥さらしになった。
 負けると、算を乱して逃げるように、秩序なき撤退を続ける自民党は、首班指名への対応をめぐって党内収拾もつかずに混迷している。新総裁選挙へのメドすらも立たず、政権引き継ぎにも真剣みがみられない現状のなかで、ひとり、衆院控室の明け渡しには反対して攻防をしているのは、いささか権力亡者の漫画チックに映る。
 国民生活には、直接関係のない話題もようにも見える「国会控室の攻防」は、枯れ尾花になった自民党の姿を晒している。一般の常識が通用しない政界、国会の盲点として、その行方も無視できない。
 

 

| | コメント (2) | トラックバック (1)

9月 07, 2009

自民大物の"すべり留め"当選

 民主圧勝、自民大惨敗の総選挙から一週間が明けた。鳩山民主新政権の政権交代が進むなかで、当選証書交付をめぐり民主と自民が明暗を分ける珍光景が露呈された。総務省で行われた比例区の当選証書付与に民主の新人議員は「一票の重さ」を噛みしめているのに対して、小選挙区で落選、比例区で"すべ留め"議席を確保した自民大物議員は申し合わせたように「代理出席」で、恥じ入るように足早に式場から姿を消した。

 自民党は惨敗のショックから、国会での首班指名選挙で「白紙投票」をめぐって党内が混乱、収拾のメドがたたない醜態を晒しいるが、比例区の大物議員の"すべり留め"当選証書授与風景は、落日の自民党の姿を物語っている。選挙中は土下座したり、マニフェストもよそに「お願いします」「助けてください」と恥も外聞もなく有権者の一票にすがりつこうとした党執行部幹部や派閥の領袖といった大物が、比例区との重複立候補で辛うじて逃げ延びた途端に、一票の重みも無視して当選証書付与付式に姿もみせないのは解せない。
 ホヤホヤの野党新人と一緒に当選証書を授与するのは、当選回数を重ねる大物議員にとっては「恥」かもしれないが、比例区の重複立候補という"すべり留め"によって救われたことを考えれば謙虚になって、有権者の一票に感謝するためにも本人が証書を授与すべきではないだろうか。一見軽く見落とされがちだが、大惨敗の負い目にさらされながら、反省もく、党の要職に居残ろうとする傲慢さとみられても仕方ない。

 ある新聞報道によると、総務省で行われた衆院選比例代表当選者への当選証書付与式では、比例区当選の約半数を占める民主候補者が、緊張した面持ちで当選の喜びを噛みしめ、「支えてくれた有権者の結晶がこの証書と思うと、ずっりした重みを感じる」と、一様に感想を述べていた。これにたいして、自民党は与謝野馨財務・金融相、小池百合子元環境相、武部勤元幹事長、野田聖子消費者行政担当相の小選挙区落選、比例区で議席にありついた大物は、いずれも代理人が証書を受け取ると、足早に立ち去ったていう。

 比例区の選挙戦をみても、民主党は"すべり留め"とされる大物議員の小選挙区との重複立候補を極力さけて、自民の大物幹部と競う「刺客」として送り、接選に持ち込んだ新人を比例区との重複立候補として、当然を保証する戦術をとった。これが当たって、議席を308に倍増させた。これに対して、自民党は大物幹部の重複立候補を優先させる"すべり留め"に比例区を利用して、これが裏目にでて議席を大幅に減らした。
 小選挙区に落選するような幹部、大物議員は、思い切って野にくだして議席を与えず、新人の起用を優先させて、党の若返りを図る英断が自民党には必要である。それに気付かず総理経験者を4人も立候補させ、落選や苦戦をさせる自民の体質は時代遅れである。
 恥ずかしくて、本人が当選証書の授与に顔をだせないような「すべり留め」をやめないと、自民党の若返りや再生は困難である。軽く見過ごされがちの、比例区の当選証書付与の光景に両党の将来を強く印象づけられた。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

8月 15, 2009

夏バテの季節に備える

 お盆休みが終わって、8月の末になると夏パテの症状が出る"夏バテの季節"になる。ことしは、梅雨明けが例年より22日にも遅れ、猛暑の日は少なかったが、夏パテだけは例年どおりやってきた。夏が遅かったからと油断するのは禁物で、夏パテ危険度チェックなど自分の生活、健康管理を厳しくする必要を痛感させられた。

 関東地方では、7月半ばに気象庁は「梅雨明け」情報を発表したが、くずついた梅雨空と雨が続いた幻の「梅雨明け宣言」となった。入道雲もほとんど姿をみせず、蒸し暑いジメジメ陽気と夜になると風がなく蒸し暑い熱帯夜が続く異常気象だった。
 例年のまうに熱中症の話も聞かず、冷夏ともいわれていたので夏バテは無縁と思っていた。ところが、お盆休みの直前、急に食欲がなくなり、体がだるい夏パテ症状に陥って体調を崩した。カンカン照りの真夏日が続いて体力を消耗するのが夏バテの原因と考えていたので、虚をつかれた形になった。夏バテ知らずで過ごしてきたので、そのメカニズムも知らずに無知に等しかった。医者にかかるほどでもないし、少し休養すればバテは解消するだろうと軽く考えると、秋まで症状ほひきずって、持病を悪化させる危険があるのを知った。
 夏バテは、疲労やストレス、気温の変化による体の負担に負けずに体調を保つ役割を果たす「自律神経」のコントロールが利かなくなったのが原因だという。猛暑の日は少なくても、じめじめした梅雨崩れの日が半月も続き、寝苦しい熱帯夜もあると自律神経が乱れて疲労が蓄積され、たまに猛暑になると夏パテが突然、襲ってくる。夏らしい日が少なかった今年も自律神経を乱した夏パテになる要素が例年と同様にあることに気付いた。
 とくに、蒸し暑いが気温がさほど上がらない日があると、休養もとらずに動き回ったり、忙しく活動する。食欲も減退気味なのを無視して、体力を落としてはと無理して流し込む。寝不足が続いても体力に任せて無視する。自律神経のコントロールは限界にきているのに気付かずに動きまわるから、ある日、突然、バテに襲われる。カンカン照りの猛暑続きの夏なら、適当に休養をとって体力の消耗を防ぐから夏パテもなくて済む。ことしのような夏らしくない夏こそ夏バテになりやすい。それは猛暑よりも、自律神経が原因だかである。

 体調がすぐれず医者へ行っても、血液検査をして異常がないと、「大したことはない、陽気のせいです」と片付けられてしまう。夏バテという病名はないらしく、それは口にしないし、まして自律神経についての説明をする医者は少ない。
 15年ほど前の夏の終わりに突然、体調を崩した。比較的涼しい夏だったので、活発に動いた。ところが、行楽地に日帰りのドライブを楽しんだが、どこといった疲労もないのに、美しい景色をみても感動が湧かない。なにか異変を予感して帰宅した途端に食欲がなくなった。食べ過ぎで胃が疲れているのかと食事を抜いても回復しない。昼飯どきになり、階下の台所から煮炊きの匂いが二階の書斎に漂ってくると、「無理しても食べなくてはいけないのか」という気持ちが働いて余計、食欲がなくなる。そして、ある日、会合に出席したら、猛烈な発汗に襲われて疲労が吹き出し中座した帰宅した。義務的に食べなくてはと思うと、食欲が湧かない。9月に入って涼しくなってもそんな状態が続いた。
 食べないから体重は減って、体に力が入らない。デッキチェアーに横になって休養をとる日が続くなか、「モーツアルトを聴くと食欲が出る」という本に出会い、毎日、モーツアルトのCDを聴いていたら、不思議にいつの間にか食欲が戻った。いま考えると、胃の疲れがとれても自律神経が回復せず食欲が戻らなかったらしい。クラシックを聴いているうちに、神経がほぐれて自律神経が回復したのだろうと、最近になって納得した。

 冷房はなるべく使わない、ビタミンB1の含んだ豚肉、納豆などを欠かさず食べる、冷たいコーヒーより温かいお茶を飲んで水分補給、風呂は温めにして熱いシャワーを浴びるなど、生活を改善に努めているが、どの程度の夏バテなのか分からない。
 パソコンで調べだら、「夏パテの危険度チェック」というサイトがあった。「夏は食欲か゜なくなる」「食事は抜くことがある」「夏はジュース、アイスクリームを食べる機会が多い」「寝苦しく寝不足のことが多い」「冷房の利いた部屋に長時間いることが多い」など15門について、「はい」「いいえ」で回答すると「判定結果」が出る。
 試してみたら、判定の結果は、危険度は60%、「要注意」と出た。 判定は予想したよりも厳しいものだった。改善策の指示も出されており、少し運動したほうがよいとあったので、静かに横になってやらずに、プールでの水中歩行を再開した。多少の疲労はあったが、その分、夜はぐっすり眠られて、食欲も徐々に戻ってきた。そして、4日後に危険度チェックで再判定したら、危険度は30%で「やや安定している」と好結果に変わった。
 早めに夏バテの症状が出たので、早く対応ができたうえに、そのメカニズムも知ることかできたので、持病再発という15年前のようにならなかったのは幸いだった。薬や注射ですぐ治るといった性質のものでなく、あくまで自己管理によるしかないので、早目にチェックして食事から就寝まで、生活リズムを回復するよう手をうつたほうがよい。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

8月 07, 2009

「朝カレー」で夏バテ防止

 朝食にカレーライスを食べる「朝カレー」が静かなブームになっている。日本人の食習慣には馴染まない面もあるが、カレーのスパイスが脳内の活性化に役立って勉強や仕事の能率をアップするという研究が、脳神経学者からも認められて関心を集めるようになった。
 朝、雨戸を開けたら、カレーの香ばしい香りが漂ってきた。カレーは昼や夜に食べるというイメージが強かったので、朝からカレーとはと一瞬、鼻を疑った。最近、テレビのコマーシャルに「朝カレー」が登場しても、よく飲み込めなったが、やっとその意味がわかった。お隣は高校生や若い人がいるので、朝食にカレーを食べるのに抵抗がないのだろうと考えていた。007
 痴呆防止や脳内活力の活性化に関する脳神経学者の本を読んでいたら、「カレーのスパイスは、脳内血流量を増加させて計算力や集中力を高める。脳波を調べると、脳内の情報処理のの働きが活発になることが確認できた」という記述が目にとまった。その持続効力は約3時間におよび、目覚めを早めるから、午前中の仕事や勉強には効果的と「朝カレー」を推奨していた。
 そして、野球のイチロー選手が毎朝、昼食と兼用の朝カレーを食べて試合にゆく例や中学や高校生が、試験の当日は朝カレーを食べると集中力アップで好成績をあげることができると、いくつかの実例が紹介してあった。
 昨年の末あたりから、受験を控えた中高生の間で「朝カレー」が盛んになり、食品メーカーがインスタント式のものを「朝カレー」と名付けて売り出しもコマーシャルにイチローや日本のプロ野球選手を登場させた。そうした効果からか、関東地方のカレー消費率が2割もアップしたという。

 料理研究家が「朝カレー」の作り方かレシピをホームページで発表したり、食品メーカーが電子レンジで温めないカレーなどを考案して、ネット上をにぎわしている。
 「前の晩に、うす切にした肉と野菜(ジャガイモ、ニンジン、タマネギ)をフライパンでさっと炒めて鍋に移して加熱、沸騰したら弱火で5分だけ煮て火をとめる。余熱で肉と野菜は柔らかくなるので、翌朝、カレーのルーを入れて温め直せば出来上がり」という家庭料理研究家のレシピが目についた。
 「あまりぐつぐつ煮込むと、カレーのスパイス効果が揮発してしまうから、朝はさっと煮るのがベストである」と、コツを添えていた。
カレーライス、とくに家庭で作るものはジャガイモの量が多く、くつぐつと煮すぎるためかどろっとしているが一般的で、それがカレーライスと信じ込まれている傾向がある。本場のインドで、現地の人と1年ほど集団生活した体験から、ドロドロしたカレーライスに疑問をもっていた。
 カレー【curry】とは、タミール語でソースの意のkariから出た言葉で、インドのカレーライスは日本のようにドロドロしていない。お盆のよな形の銅製の大きな皿にライスを載せ、それにさらっとしたカレーを添える。ビジリタリアンが多いので、肉はほとんど使わず中に入れる野菜は豆類が主体になる。
 ライスを3本の指先で器用に小さな塊に丸めて、カレーを付けて口に入れる。スプーンは使わないが、彼らによると、自分の指先ほど清潔なものはない。スープんなど洗ってあるといっても信用できない。指は自分が食前に洗ったのだから、これほど確実なものはないと主張する。
 だから、日本のようにドロドロ状のカレーでは、ライスの小さな塊に付けずらしいし、スースのようさらったしたのがぴったりする。
カレー粉は黄褐色の辛味の強い混合香辛料。ウコン・コエンドロ・コショウ・ショウガ・トウガラシ・カラシ・オールスパイス・チョウジなど多種の香辛料を配合して作り、インドが主産地である。

 「朝カレー」のレシピに、料理研究家が「さっと煮る」をコツとして強調している理由がよく理解でき共感した。若い世代はともかく、日本独特のどろっしたカレーを朝から食べさせられると思うと、味噌汁、納豆、のり、卵が定番の朝飯世代には少なからず抵抗を感じるだろう。
 本場のインドのように、さらったしたカレーなら抵抗もなく口にできるだろう。朝飯は家族揃って食事をしながら一日の安息を祈る儀式的な要素がある。通勤や登校に時間を気にしなが、味噌汁で流し込むようにかっ込むよりも、朝カレーは食べやすいし目覚めと栄養価にも優れている。
 とくに、暑い夏場は、仕事も勉強も午前中の涼しい間が勝負である。早く脳内神経を活性化して集中力を高めてテキパキこなして能率をあげるのには、朝カレーは最適かもしれない。痴呆防止にも効果があるという研究から、老人ホームやグループホームでもカレーライスが喜ばれるかもしれない。
 それに関連して、ひつと疑問に思うのは、最近、駅前などからカレー専門店が姿を消して久しいことである。手軽て゛安価なので、駅の近くにはカレーシヨツプが軒を並べていて、通勤や急ぎ時に利用する客で賑わっていた。それが、いつの間にか姿を消して、たまにレストランで食べると1000円もとられるのは解せない。
 「朝カレー」のブームによって、街のカレー専門店が復活するのを祈りたい。


 

| | コメント (0) | トラックバック (2)

«涼風をよふスダレ吊る