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7月 21, 2007

百日紅の花に想う

 夏休みにはいっても梅雨は明けず、一向に夏めいてこない。入道雲がもくもと湧き立つのはいつだろうと空を見上げたら、百日紅(さるすべり)が赤い花を咲かせ始めていた。
 昨年は花が遅れ盛夏もおわりの8月末になって咲いたが、ことしは順調である。この花をみると、作家の城山三郎さんが浮ぶが、亡くなられて早くも4ヵ月、40年近い老木は、そんなことを知らずに健気に咲いている。

 わが家の百日紅は、家を新築したとき、門の脇に植えて以来、形も当時のまま、粗末なブロック積みの門を引き立てるように40年間、夏から秋にかけて花の名前とうり百日間、一日も欠かさずに咲き続けている。Sarusuberi_1_3
 花の少ない夏を彩って、毎日、あたらしい花を咲かせる貴重な存在である。当時は、庭付きの家がほとんどだったが、家主が代替わりして二世の代になると庭を潰して敷地一杯に新築するので、百日紅のある家も数えるほどになり、道行く高齢の人たちが懐かしそうに花をみあげている。
 百日紅を門松の代わり植えたのは、建築費の工面が精一杯で、枝ぶりのよい見越しの松を植える余裕がなかった。松よりやや安価の槙の木を植える家もあったが、それよりも安い百日紅にして格好をつけた。
 それを植えた植木屋もすでに故人となり、門を作った職人も亡くなって歳月の流れを感じさせる。それに、この木についてエッセーを綴った城山さんも、今はない。衰えもせず、季節を先取りして咲く花をみていると、思わずそんな感慨に浸り、この木の生命力にあやかりたいと思うことがある。

 城山三郎さんが、エッセー集「湘南」で「この夏の主役」として百日紅を書いたのは1989年、16年前である。定年をむかえ家居の生活に入り、仕事人間からの脱皮を心掛けていた頃で、このエッセーが心に深く残った。
 それ以来、夏になると百日紅の花づきが気になって、春の芽吹きが遅れると心配になり、初冬の枝落としも自分で行なうようになった。
 この木は、太い枝の先に瘤がいくつも出来て、そこから新しい芽をだし、それが小枝になって尖端に赤い花をつける。一日たって花が枯れ、その後からまた新しい花が咲く。それを猛暑のさかりに連日つづける。
 だから、秋になって葉が落ちて枝だけになっても、瘤は傷つけないように注意しながら小枝の剪定をしていた。本職の植木屋も、瘤に小さな枯れ枝を残しておくほうが風情がある。素人は、瘤は残すが枯れ枝を綺麗に切り落として殺風景にしてしまう、と私のやり方を誉めてくれた。

 本職の植木屋が年をとって、脱サラの植木屋に代った。素人あがりで植木に対する心がない。植物生理に関係なく、自分の仕事のスケジュールを優先させて、時間が空くと剪定にやってくる。
 百日紅の剪定は、12月の暮半ばが恒例になっていた。木のほうも、そのリズムに長年馴染んで生きてきた。ところが、一昨年は、花が終わり、葉を散らすので面倒とばかり10月半ばに剪定した。生憎、暖冬だったためか木が勘違いして、剪定たあとから”ひこばえ”が生え出してきた。植木屋は暮に松の手入れにきて、百日紅のひこばえも切り落とした。
 そのせいか、翌年は芽吹きが遅れ、花も盛夏が終わる8月末に遅れて咲いた。老木のせいかなと思ったが、原因は生態リズムを崩されたためだった。そして、昨年は、大切にしてきた枝の瘤を害虫の巣になり易いからと、全部切り落としてとまった。街路樹にはよく見られるが、太い枝の途中から切り落とすのは、丸太の枝のようで見苦しい。
 ことしは、芽吹きも遅れ、花はダメかなと諦めていたら、途中から切り落とされた箇所の脇から新しい枝が生えて、その尖端にいままでよりもねしっかりした花を7月半ばと、花暦どうりに咲かせた。木の生命力の強さにあらためて感心させられた。

 城山さんは、「夏の主役」として百日紅を愛でていたが、ふとしたことから朝日の「天声人語」で当時の名筆家荒垣秀雄さんが「芥川龍之介は百日紅を”怠け者の木”と呼んでいる」と書いたのを読んだ。
芥川の怠け者説の根拠は、庭木のなかで葉をつけるのは一番遅いくせに、葉を散らすは一番早いということらしい。たしかに、葉を付けのは遅くやきもきさせるが、花が満開の8月末になると毎日葉を散らす。咲き終わった花屑と一緒に落ち葉を、朝夕と二度も掃くのは大変である。
 健気に咲いてくれると花を愛でながらも、散った葉の始末に手をやていた城山さんは、いつぺんに怠け者説に傾いたらしい。
 「怠け者説を読んでからは、花を見る目がうとく、冷たくなった。”ああいう人間なのか”と正体が見えてしまうと、一度に味気がなくなり、つきあう気をなくしてしまうのである。
 百日紅には気の毒だが、万事に人間の顔をみようとする物書きの家に植えられたのが不運である」
 勤勉一筋の作家、城山さんらしいと思った。それとは別に、「暑い季節、百日にわたって咲き続けるのだから、いかにも健気な感じがあって、人目につく。まことに要領のいい木というわけで、人間にもそういう人種がありそうである」という指摘も面白いと感じた。

 生きることにあまり器用でない城山さんは、「要領のよい人間」を好まないのだろう。「要領いい」という言葉は、誉め言葉でなく、ネガティブに受け取るのは、軍隊などで痛めつけられた経験をもつ城山さんのような戦前、戦中派に多いのではとも考えた。
 要領が悪く、いつも上司から叱られるが、めげずに努力する人間が、城山さんは好きらしい。いまの若い人に、その感覚が分かるか疑問になった。

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