エイプリル・フールの思い出
毎年、4月1日になると、50年も前のその日の出来事が懐かしく思い出される。まだ駆け出し時代で、長野支局に勤務していたころの話である。
当時、支局には6人ほどの若い記者がいて、支局長は東京本社から赴任してきたばかりで、仕事に厳しいが自由闊達な典型的な"朝日人"だった。
春の遅い信濃路にもようやく、春の訪れを思わせる穏やかな日だった。
「ご主人が転勤になりましたから、いらっしゃつてくれませんか」
支局長からの電話に、支局員の奥さんたちは服装を改める余裕もなくあたふたと駆けつけた。どこへ転勤せられるのだろう、北海道かしらと異動先のことしか頭にない。支局のドアを開けるのももどかしく中に入ると、同僚の奥さんたちが顔を揃えていて「お宅も」と顔を見合わせた。
人事異動は、本人の意向を事前に確かめるなど一切せず、本社から電話で通告してくるのが当時の習わしだった。いまにして思えば、民主的と思われる「朝日」で、きわめて封建的な制度だったが、それが厳重に守り通されてきた。事前の内示や打診はいっさいなく、それが当たり前と割り切っていた。
10人足らずの支局で、全員が揃って転勤ということはあり得ない。おかしいと、当然、気づくべきだし、本人でなく、その妻に伝達することはありえない。ところが、異動と聞かされただけで動顛した奥さんたちは、それを考える余裕はなかったらしい。
「みなさん揃いましたね。きょうは、どんな日か思いだしてみてください」
支局長は涼しい顔をして、はじめてエイプリル・フールの種明かしをした。
亭主が異動を逃れたという安堵から、奥さんたちはどっと笑い声をあげて、殺風景で狭い支局は、一転して華やいだ雰囲気になった。
「さあ、出掛けましよう」と、支局長はみなを誘って街へ繰り出した。
春の遅い長野にしては、よく晴れ上がり心が浮き立つような日だった。見知らぬ土地で、事件事故などに追われて亭主の帰宅時間もままならない侘しい生活をしている奥さんたち。それを慰めようと、支局長はエイプリル・フールにかこつけて一計を案じたのである。
行きつけの喫茶店に案内して、お茶をご馳走して歓談した。
日頃、謹厳をもって鳴り、仕事には厳しい支局長だっただげに、奥さんたちも、そんな一面があったとは知らず、見事に騙されてしまった。
4月1日になると、毎年、この話を思い出し「いい時代だった」と当時を述懐しては若い頃を懐かしむ。その支局長も15年前に長寿を全うして他界し、エイプリル・フールでかつがれた奥さんたちの中にも亡くなったり、ご主人を失った人もいる。
テレビなどなかった時代で、娯楽といえば映画ぐらいしかないなかった。日頃の些細なことにもユーモアをみつけて楽しむ。そんな日々が蘇って、エイプレル・フールも、よき時代への回想として貴重におもえた。
エイプリル・フールは、17世紀初めに西洋に根付いた風習だという。
ヨーロッパでは、16世紀の暦法の改正までは、3月25日から4月1日までが新年とされ、春分の祭りが行なわれた。
その最後の日には贈物をする慣習があり、品物だけでなく、ジョークなどをやりとりして互いに軽い嘘で人をかつだりして楽しんでいた。その日をエイプリル・フールデーとよび、騙された人をエイプリル・フールといったというのが定説になっている。日本では「四月馬鹿」、中国では「万愚節」ともいわれたという。
物が豊かにになって、娯楽にも事欠かない昨今は、言葉遊びが廃れるとともにエイプリル・フールはすっかり忘れられるようになった。当時は4月1日は騙されたり、かつがれたりしないよう注意して出社した。職場には、もの好きがいて、どうして騙そうか一計をねる者がいたものだ。
人に害を及ばさない程度の嘘はついても許されることになっていた。欧米では通信社が事件、事故の偽情報をながして、新聞社を慌てさせることもあったが、エイプリル・フールとして咎められなかった。心にゆとりがなく、家庭や職場の人間関係にも潤いがなくなって、いつしか四月馬鹿の風習はすっかり忘れられ、そうした慣習を知らぬ世代がふええた。
バレンタインデー、母の日、父の日にはじまってホワイトデーまで登場したのに、17世紀以来の風習が廃れるのは解せない。バレンタイン・デーなどは、チョコレートなど様々な贈物をするから、デパートなどが絡んで商魂たくましく宣伝する。
商売にはならない、エイプリル・フールはデパートも見向きもしない。パソコンのブログで、エイプリルの傑作を募集したが、いまひとつ盛り上がらなかったという。
一年じゅう、人を騙したり、嘘で固めている日が多く、毎日がフールデーの世の中では、四月馬鹿などといっても新鮮味がないのかもしれない。
騙したり、騙されるのかが当り前になっているのなら、発想を180度転換して、4月1日は「軽い嘘もいけない日」と決めるのも、案外面白いかもしれない。
こんな途方もない考えが浮ぶのも、エイプリル・フールの日だからだろうか。
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