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6月 02, 2009

山崎豊子「運命の人」佳境へ

 沖縄返還をめぐる日米密約漏洩事件をモデルにした山崎豊子「運命の人」(全4巻・文芸春秋社)は、好評裡に第3巻が発売された。毎日新聞の西山太吉記者が密約電文をスクープ、それにかかわった外務省の女性事務官とともに逮捕、起訴された「西山事件」の経緯を克明に描いてきた第1、2巻から、問題の核心に迫ってドラマチックに盛り上げてゆく。タイトルの「運命の人」をより鮮明しながら、山崎豊子ならではの本領をみせる佳境に入った。

 37年前の事件、沖縄返還にさいして米国が復旧費として支払った400万ドル(約15億円)は、実は日本政府が米国側に払った見せかけのものだった。国民を欺いたその密約を暴いた新聞記者の努力も、女性事務官との男女問題にすり変えられた問題だけに、山崎豊子が沖縄問題への熱情を傾けて書きあげた長大作が、果たしてどこまで読まれるかという声をよそに40万部に迫るベストセラーになった。それたけに、第3巻への展開が注目されたが、国家権力の罠にはまって失意のドン底に落ちた弓成記者(西山記者)と家族の過酷な運命、男女問題へのすり変えられた国民の知る権利と報道の自由との戦い、国家機密の名の下に密約の存在を隠蔽する外務省首脳、さらには検察に乗れられて罠とも知らずに微妙に揺れるの女心の女性事務官などをリアルに描きだしていた。3_2

 第3巻は、検察の男女問題へのすり替えから風向きが変わった国民の関心をよそに、問題の核心である密約の存在を外務省首脳に追及する弓成弁護団の法廷戦術、そして、報道の自由のため証言台に立つ各社の新聞記者が取材手段の内幕をのべる証言を克明に伝える書き出しから始まる。事件が明るみに出て夫の情事にショックをうけ弓成との深い溝に悩む妻、由里子と崩壊寸前の家族の悲惨さ。また、「弁護団の方針は上品すぎる。そそのかしか、そうでないか、法廷でなぜはっきりさせないのだ」と弓成記者を励まし、「あの底の知れん女に悪乗りされるぞ」と苛立つ同僚他社の政治記者などの結束ぶりを書いている。
 公判当初は、世論の関心をそそるため弓成記者と女性事務官の関係を中心に、「情を通じ、それを利用して」と、密約漏洩の「そそのかし」と勢いよく攻勢に出ていた検察側は、女性問題には一切ふれず密約と、その存在を論理的に追及する弓成弁護団に押され気味で迫力がなくなっていった。密約問題について深く勉強せず、「知る権利」など報道の自由は国家のためには無視という傲慢さが裏目にでて、検察の敗色が濃くなった。

 こうした空気を反映、初公判から1年7ヵ月ぶりに判決公判迎え、本山裁判長は女性の三木事務官に国家公務員法違反として「懲役6ヵ月、執行猶予1年」の有罪判決をくだし、一方の弓成記者には「無罪」と判決した。弓成側の完全勝利だった。
 「弓成記者の行為はことさら執拗、強引に行われたとは認められない。肉体関係を利用してなされたことは認められ、取材の正道を逸脱したものとして社会的非難を免れないが、より正確な取材をしようとした記者の熱意や職業意識は理解できなくはない。
 三木被告との関係は、倫理的非難に値するとしても、法が深く立ち入るべきではない側面のあることなどを考えると、正当行為性がないとまで判断することできない」
 無罪の判決理由を本山裁判長は述べており、国家公務員法違反の最高刑である1年を求刑した検察側は完敗である。男女問題は「法が裁くものではない」という一言に検察の主張を完全に斥けられたのである。この判決に検察側は控訴、"弓成退治"を命じた佐藤栄作前総理は「あの裁判長はアカ(共産党員)だ」と激怒したという、
 弓成記者は、無罪判決を勝ち取ったものの、毎朝新聞がこの問題で50万部を失い社内首脳部の風圧が強まったことから、判決を機に辞表を提出して社を去った。朝、毎、読といわれる全国3大紙から毎日が脱落して、発行部数も朝日、読売が900万代をキープしていのに毎日だけは300万部に落ち込むという凋落ぶりに、弓成問題が拍車をかける形となった。その責任を感じた弓成記者は、予想される控訴審の準備に専念するという口実で生涯を賭けた新聞記者の仕事から身を引いて、ひとつのケジメをつけたのである。

 一方の女性事務官は、「早く裁判が終わって世間から忘れられたい」と公判当初から語り、控訴せず判決を認めたが、弓成記者の無罪判決に怒って「私の告白・三木昭子」を「週刊潮流(週刊新潮)」に発表して、弓成記者との関係を一方的に暴露した。
 初公判の法廷では、泣き崩れたか弱い女性を演じて世間の同情をかい、一部の女性運動家たちは「三木さんを守る会」を結成、街頭募金活動をはじめた。マスコミや世間から身を隠すため弁護を担当した坂元弁護士事務所に逃れてアルバイトを続け、女性運動家との接触を避け、差し出された街頭募金も返却して身を潜めていた。心身の不調を理由に公判の法定も欠席、姿をみせたのは初公判と判決公判の2回だけだった。
 「早く世間から忘れられたい」という彼女の意を汲んだ坂元弁護士の指示によるものだったが、坂元氏に隠れてこっそり週刊新潮の松中記者に接触、新宿・京王プラザホテルの45階のラウンジで、カクテルのサイドカーを含みうっとりとした声を漏らしてインタビューに応じていた。半年もこうした甘い雰囲気のインタビューが続き、二人の雰囲気は、キャンドルライトのもとで寄り添うように語らっている周りのカップルたちの一組として、溶け込んでいた。
 法廷でよろよろと泣き崩れた彼女には到底考えられない、彼女の別な顔があった。松中記者への接触も彼女のほうから積極的に仕掛けたものである。こうして弓成記者との情事の詳細にも触れる告白文を書かせ、判決当日にぶつけるというタイミングを計った。「早く世間から忘れられたい」と、細々と漏らす彼女からは想像もつかない大胆さだった。
 週刊新潮の松中記者も、スキャンダルの渦中にある女性の思わぬ接近に警戒したが、告白文の大特ダネを独占するために、45階の高層ビルのラウンジから夜景を楽しむ恋人まがいのインタビーに応じ続けていた。
 「弓成憎し」で貫いた膨大な告白を載せた週刊新潮は100万部が増刷され、密約と報道の自由を掲げて無罪判決を評価する新聞ジャーナリズムと、三木事務官の男女問題告白を満載する週刊ジャーナリズムとの激しい戦いが展開された。
 「法廷で無罪判決を勝ち取った弓成と新聞ジャーナリズムに対する痛烈の週刊誌判決であった」と、山崎豊子は小説のなかで書いている。

 そして、検察控訴から2年後、二審の東京高裁は、弓成記者に「懲役4月執行猶予1年」の有罪判決をくだし、弁護側の控訴に最高裁は、その2年後に「上告棄却」を決定、弓成記者の有罪が確定した。逮捕から約6年にわたる長い法廷闘争の末、弓成記者は一縷の望みを託した最高裁にも裏切られた思いにかられて、家族とは別居して独り九州の"バナナ王"とよばれる父親のもとに帰って、家業を継ぐのである。
 東京近郊の会社勤務の三木元事務官は、一審の坂元弁護士からの電話で最高裁の決定を聞くと「一審で自分だけ有罪にされ、片手落ちと不審を募らせていただけに、ようやく胸が晴れました。日本の裁判はやはり公正なんですね」と、語ったという。
 「告白」を発表したあとも、テレビのワイドショーにまで出演している彼女の態度に、弓成弁護団は控訴審公判で「弓成記者との関係が明るみに出るのを恐れて戦々恐々としてたという供述には似つかわしまない」とのべ「辣腕記者にダマされた。いいなりにされてしまったという被害者立場をとる心情と理由はできない」と問題にした。
 事件発生から6年も経つと事情も変わるだろうが、彼女の激しい豹変ぶりに、世間を騒がせた「情を通じて・・」は、なんだったのだろうとという疑問がわく。その間、終始、その問題には沈黙し通した弓成記者に対して、彼女の気遣った芯の通っている潔さが伺われるという声もでて、「密約漏洩事件」も次第に忘却の彼方に消えていった。

 国家権力と検察などによる過酷な運命に苛まされた弓成記者やその家族にとっては、事件は終わったわけではない。彼は妻子を残して独り九州の実家に戻って家業を継ぐが、バナナ王と呼ばれ九州一円を仕切っていた弓成青果は、大型スーパーの出現など時代の波に押されて後発企業に吸収され、廃業に追い込まれた。
 生涯を賭けるつまりだった新聞記者の仕事、最愛の家族、誇りをすべて失い、家業による再生の道も断たれて、競馬などギャンブルにのめりこんでゆく。小倉競馬場に通う日々を過ごすある日、日頃から贔屓にしていたスズカブライトに賭けた。夏の小倉記念杯を制覇すれば、秋の天皇賞、暮の有馬記念へと進む本命とされいたが、ゴール直前に失速して倒れた。だれにも止めることができなかったスピード故の突然の骨折事故だった。
 弓成は悲鳴をあげその瞬間、脂がのりきった政治部与党担当キャップだった時、自らの記者生命を断たれた衝撃が脳裏にうかび、五体がわなわなと震えた。いつ全レースが終わったか定かでない虚脱状態で、パドック横の庭園をさまよい、散水用の生ぬるい水をごくごくと飲む。水溜まりにぼんやり映っている窶れ、魂の抜け殻のような顔が、現在の自分の姿なのか、愕然とする。
 骨折したスズカブライトは、治療不可、痛み緩和のため即安楽死の処置がとられるだろうが、自分にはその道はない。さりとてありあまる時間がありながら、何かをする気力も失せ書物さえ絵空事としか思えなくなり、活字からも遠ざかっている。このまま無為に過ごしていれば、もっと堕落した惨めな人生しかないだろうーー。そして、弓成は「この土地を離れなければいけない」と、夏の終わりの夕陽が暗い雲間に沈む中、定まらぬ足もとで歩きはじめた。第3巻のラストシーンが、いつまでも脳裏から離れなかった。

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